第七十二話:神戦? いいえ、“厨房領域”の展開です
神殿中心部。ここでは空間そのものが意味を失っていた。上下は反転し、光は歪む。
混沌の中心で――【旧支配者クトゥルフ(高次投影)】が、ゆっくりと眼を開く。
デカい。人間が視認できるのは、触手の一本だけ。体積の問題ではない。生命階梯そのものが、絶対的に違う。
「……どさ」
さっきまで意気揚々だったデイヴィッドが、膝から崩れ落ちた。包丁は床に落ち、全身が篩のように震える。「俺は……塵……俺は……虫……」
“食材認知”は、真の神性の前で瞬時に崩壊した。
「跪くな!!」
怒号とともに、乾いた平手打ちが鳴った。リンがデイヴィッドの襟を掴み、血走った目で強制的に精神リンクを繋ぐ。ここでデイヴィッドが折れれば、全員死ぬ。
「デイヴィッド、俺を見ろ!!」
「あいつはタコだ。お前もタコだ。お前は深淵の邪神だろ? なぜ同類を怖がる」
「いいか、ここは神殿じゃない」
リンは精神力を燃やし尽くす勢いで【シーン再構築】を最大出力にする。デイヴィッドの感覚世界を、無理やり上書きした。
「ここは――お前の厨房だ」
「そこのデカブツは神じゃない。お前が人生で見た中で最大で、最も美味い――**本マグロ(大トロ)**だ」
「食われる?違う。さばくのは、お前だ!!」
強烈な暗示で幻覚が重なり、デイヴィッドの目には、歪んだ虚空がまな板へ変わり、旧支配者は巨大な海鮮へ“見えた”。
「りょ……領域展開……」
デイヴィッドは立ち上がる。身に青い幽冥火が灯った。
【固有結界《ヘルズ・キッチン(Hell’s Kitchen)》】
「グオオオ――!」
冒涜を感じたのか、クトゥルフが山を砕く触手を叩きつける。常識なら、滅びの一撃。だがデイヴィッドの脳内翻訳はこうだ。
「……身が硬い。叩いて繊維をほぐす必要がある」
「カンッ!」
デイヴィッドは避けない。リンの付与術で強化された包丁を、刁鑽な角度で関節の薄い部位へ滑り込ませた。
【庖丁解牛・神殺し】
――ぶしゅっ!
緑の神血が滝のように噴き上がる。百メートル級の触手が、寸分違わぬ断面で切り落とされた。旧支配者が――固まった。数万年生きて初めて痛みを知り、初めて“参拝しない蟻”に遭遇したのだ。
この蟻は、拝まない。刺身にする気だ。
「アリス!火力支援!炙れ!!」
「アーサー!鱗取り担当!!」
「ジャンヌ!味付けを撒け!!」
リンは手術の執刀医みたいに、戦場を指揮する。「攻めろ!今日の晩メシのために!!」
狂気の勝利だった。恐怖が食欲に置き換わり、神が食材に落とされた瞬間――旧支配者の威厳は、ただの笑い話になった。
三時間後。旧支配者は死んではいない(本体は高次元にいる)。だがこの投影は、ほぼ“頭だけ”になるまで捌かれた。屈辱と恐怖を刻み込み、黒煙となって次元裂け目へ逃げ帰る。――二度とこの怖すぎる三次元に来ないと誓いながら。
残ったのは、まだ跳ねる触手の山と、暗黒大陸全土に満ちる――焼き肉の香り。




