第七十話:SAN値がゴリゴリ削れる? なら“工業用ノイズ”で毒を以て毒を制す
(場所:暗黒大陸・ルルイエ遺跡外縁)
「……おぇ……」
呪われた黒い大地に足を踏み入れた瞬間、元・聖教廷の聖女ジャンヌは体面も何もあったものじゃなく、膝から崩れ落ち――朝食を綺麗さっぱり吐き切った。
空は病的な紫紅。壊死した鬱血の肉塊みたいに、どす黒く滲んでいる。太陽はない。代わりに、地平の彼方に巨大で濁った“眼球”が一つだけ浮かび、冷淡に侵入者を見下ろしていた。
空気は死体の脂のように粘つき、吸い込むたび肺の内側を無数の小虫が齧るような錯覚が走る。
だが――最も恐ろしいのは、音だった。
無数の人間が耳元で囁いているような、低周波のざわめき。それは聴覚を迂回し、ドリルみたいに大脳皮質へ直接ねじ込まれる。
「防御魔法が……全部、効かない……」
元勇者アーサーは剣を握った手を激しく震わせ、冷や汗で鎧を濡らしていた。「“勇気のオーラ”が飲まれた……。自殺したくなる……。腹を裂いて、腸の中身を見たくなる……」
理性が崩壊しそうになった、その時。
前方の黒い海面が、突然――煮え立った。岸へ這い上がってくるのは、数え切れない【深きものども(Deep Ones)】。死んだ魚みたいな目。首筋の鰓が開閉し、物理攻撃はせず――ただ、全員で同じ“共鳴”を鳴らし始めた。
「グァラ……クトゥルフ……フタグン……」
【精神汚染波・最大出力】
「ぎゃあああっ!」
ジャンヌは悲鳴を上げて自分の頬を掻きむしる。聖光が一瞬でくすみ落ちた。「やめて……!やめて……!神が……血を流してる……!死にたい……!」
全員のSAN値がゼロへ落ちる、まさにその瞬間――
「……ぱし」
温かい手が、震えるジャンヌの肩に置かれた。リンは巨大な工業用ノイズキャンセリングヘッドホンを装着し、眼前の吐き気を催す怪物の大群を“騒ぐ患者”でも見るように、無表情で見据える。
「典型的な【集団性・聴覚催眠誘導】だ」
リンの声は落ち着き払い、骨伝導イヤホンで仲間全員の耳へ直通する。「特定周波数の音波で脳波を強制改変し、自滅させに来ている。――なら、音波攻撃は音響で返す」
そう言いながらリンは、空間指輪から城壁みたいに巨大な【深淵・魔導アレイ音響システム(攻城級)】を取り出した。地精テックの最高傑作。もともと敵の城壁を粉砕する“音波兵器”だ。
「アリス。周波数を“デスメタル”帯へ。音量――致死量」
「了解」
S級機娘の瞳が青く爆ぜ、指は仮想キーボード上で残像になる。
――ゴォォォォン!!!
最初のバスドラが鳴った瞬間、空気そのものが裂けた。最前列の深きものども十体は反応する暇もなく、音圧で肉片に砕け散り、血霧になった。
それは音楽じゃない。音響暴力だった。狂暴なディストーションギター。毎秒二十発のツインペダル。不可視の重槌が、歪んだ空間へ叩き込まれる。
曲目:『地獄咆哮・脳髄バースト(Bass Boosted)』
「グァ?!」
吟唱は即座に遮断された。古神の囁きを受信するために繊細に作られた鼓膜は、このリズムで一瞬にして裂ける。
そして――最も荒唐無稽で、最も滑稽な光景が始まった。過剰なビートで神経系がバグり、怪物たちは制御不能のまま激しくヘドバンし始める。身体はリズムに合わせて痙攣し、まるで薬をキメた首振り玩具の大群。
さっきまでの陰惨な献祭場が、デスメタル大型クラブイベントに変貌した。リンはスピーカーの頂上に立ち、ノイズに苦しみながらも止まれない怪物たちを見下ろし、冷ややかに眼鏡を押し上げた。
「……今は、声がデカい方が“真理”だ」
だが音波で雑兵を掃討した代償はあった。この大地のさらに深い場所に眠る“何か”を――起こしてしまったのだ。地面が蠢き、黒い泥土が立ち上がる。遮天蔽日の黒い高壁に変わり、その表面に無数の悪意の眼が開いた。
物理法則の外側にいる怪物――ショゴス。




