第三十六話 診断書:「重度退職症候群」
「……誰に向かって説教たれてやがる。」
バアルが拳を振りかぶる。その一撃が落ちれば、リンは確実に肉片になる。
だがリンは、一歩も退かない。
ただ、静かに呟いた。
「母さん、最後にこう言ってたよ。
――『この子の言うことは、聞いてあげて』って。」
バアルの拳が、リンの鼻先一センチで止まる。
あの凶悪な顔に、一瞬だけ、何ともいえない表情が過ぎった。
懐かしさ、罪悪感、そして血のつながりゆえの、どうしようもない弱さ。
「……クソッたれ。」
バアルは拳を引っ込め、どすんとソファに腰を落とした。
家具が悲鳴をあげるように軋む。
「いいだろう。言いたいことがあるなら言ってみろ。」
「診察だよ。」
リンは椅子を一脚引き寄せ、正面から父の瞳を見据えて腰掛けた。
「親父がそんなに怒ってる理由はな、
俺が情けないからでもなければ、魔界が腑抜けになったからでもない。」
「“忘れられるのが怖い”からだ。」
刃物のように鋭い指摘が、真正面から突き刺さる。
「一生、戦場を駆け回り、いくつもの世界を蹂躙してきた。
それが急に“刑期満了”――つまり引退だ。」
「ふと気づいたら、誰も『バアル様! 出撃を!』なんて言ってこない。
……そのくせ、俺とアスモデが好き勝手やってるのを見て、
自分だけ置いてけぼりになった気がしてる。」
「だから破壊して回りたい。村を焼いて騒ぎを起こしたい。
壊せば、みんなが自分を見てくれるから。
――花瓶を割って、親の気を引こうとする駄々っ子と、何が違う?」
「デタラメを……!」
バアルの顔が真っ赤になる。
「ワシは魔神だぞ!? 孤独など――!!」
「じゃあ、どうして戻ってきてすぐ“存在感アピール”してる?」
リンは淡々とした手つきで、一枚の診断書をテーブルに置いた。
「認めろ。【重度退職不安】に【空の巣症候群】を併発してる。
戦い以外でどう価値を示せばいいか分からない。
自分の存在意義が、ガラガラと崩れてるんだ。」
バアルは黙り込む。
炎に包まれた自分の手をじっと見つめる。
――破壊以外に、自分は何ができる?
今の世界は、魔王ですらプリンを食べながら決算書を眺めている。
そんな時代に、“壊すこと”しか能のない化石に、果たして居場所はあるのか。
燃え盛っていた地獄の炎が、少しずつ静まっていく。
かつて絶対者と恐れられた魔神が、ふいに小さく見えた。
「……で、ワシにどうしろと?」
ボソリと漏れた声は、やけにか細い。
「牛みたいに畑を耕せってか? あの吸血鬼みたいに愛想振りまけと?」
「いや。」
リンは眼鏡を押し上げ、心底「親孝行」そうな微笑を浮かべた。
「親父は“脅かす”のが好きで、“暴れる”のも好きで、
ついでに“目立つ”のも大好物だろ。」
「だったらちょうどいい、“重要ポスト”がある。」




