第二十四話 エネルギー保存の法則? いいえ、「罪の移転」です
民衆の意識は覚醒した。
だが、危機が去ったわけではなかった。
「あああああああああっ!!」
人々のあちこちから、断末魔にも似た悲鳴が上がる。
さっきまで正気を取り戻していたはずの平民たちが、突如として胸を押さえ、黒い血を吐き出し始めたのだ。
「ハハ、ハハハ……ゲホッ、ゲホッ……」
頭から血を流しながら、高台にしがみつく国王は、なおも下衆な笑いを浮かべていた。
「無駄だ、リン! 黒薔薇の毒はもう、奴らの骨の髄まで染み込んでいる!
この私が死ぬか、私が解毒剤を渡さない限り――
こいつらはここで、全員爆ぜるんだよ!」
「こいつらの命は、まだこの私の手の中だぁ!」
民衆の顔から血の気が消える。
毒がもたらす激痛に、立っていることすら難しい。
リンはその光景をじっと見つめ、その瞳に、ようやく本物の冷たさを宿した。
血を這うようにじわじわと歩き、高台の縁に横たわる瀕死の国王の前に立つ。
見下ろす視線は、人間ではなく「標本」に向けるものだ。
「物理学には、『エネルギー保存則』というものがある。」
リンの声が、魔導拡声器を通じて広場の隅々にまで届いた。
「毒素は確かに、何もないところから消えてはくれない。」
だが、と彼は続ける。
「だがな、国王陛下。神秘学と心理学の世界には――
“因果転嫁”という操作がある。」
「この毒は、お前たちが作った。
お前の王家と貴族どもが、享楽のためにこの世界に持ち込んだものだ。」
「ならば、罪なき者に後始末を押し付けるのは、“フェアな取引”とは言えない。」
リンはゆっくりと手を掲げ、掌を空へ向ける。
【禁術起動:群体病巣・強制転移】
「そんなにこの花が好きなら――
お前たちだけで、腹いっぱい味わえ。」
ドン――ッ。
王都の空が、音を立てて色を変えた。
二百万の平民の身体から、無数の黒い気配がむしり取られる。
それらは空中で集まり、咆哮する巨大な黒い毒龍へと姿を変えた。
「行け。」
リンは指先で弾き、その先を――金碧輝煌だが腐臭漂う王城へと向ける。
窓の影からこの光景を震えながら見ている、数千の貴族、大臣、悪徳官僚たち。
黒い龍はそのすべてを、標的にした。
毒龍の咆哮が響き渡る。
王城の防御結界は、まるで紙のように突き破られた。
黒い奔流は、大広間に、玉座に、そして国王本人の身体に――容赦なく流れ込んだ。
「や、やめろぉおおおおおっ!!」
国王の悲鳴は、もはや人間のそれではなかった。
二百万分の毒。
二百万分の痛み。
そのすべてが今、この王とその取り巻きに集中している。
バキ、バキ、バキッ……。
おぞましい変異が始まった。
人々が凍り付いた目で見守る中、国王の身体は風船のように膨れ上がっていく。
皮膚は漆黒の角質に変わり、
両腕は巨大なスコップのような鉤爪へと退化し、
声帯は潰れ、荒い呼吸音だけが喉の奥から漏れ続ける。
王城に潜んでいた貴族たちも、次々と異形と化していく。
八本の腕が生えたもの(重量物の運搬に最適)、
車輪そのものになったもの(高速輸送に最適)、
筋肉だけがやたらと発達した巨体(脳筋作業に最適)。
毒は彼らを殺さなかった。
――毒は、彼らを「作り変えた」のだ。
享楽しか知らない寄生虫どもを、
この世界で最も頑丈で、最も酷使に耐え、そして永遠に疲れを知らない労働生物へと。
「これが、お前たちの“福報”だ。」
リンは、よだれを垂らしながらうめき声を上げる巨大な怪物(元・国王)を見下ろし、冷やかに告げた。
「おめでとう。ジョブチェンジ完了だ。
新しい職業は――王立清掃労務隊長。」




