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第二十話 千の仮面を剥がす者――鏡の中の見知らぬ自分

(場所:ダンジョン第99層 深淵クリニック・集中治療室)


 時間が、そこで固まったようだった。


「千面魔女」と呼ばれる王国最強クラスの暗殺者は、いままさに喉元を突き刺そうとしていた体勢のまま、空中で硬直している。


冷や汗が、変装した顔のこめかみからつうっと伝い、床にぽたりと落ちた。


――動けないのではない。


――動けるが、動いた瞬間に終わると、本能で理解しているのだ。


背後の影の中では、いかにも朴訥そうなミノタウロスの警備員が、巨大な戦斧の刃を無言で拭っている。


窓辺のカーテンレールには、吸血鬼の女王が腰掛け、ワイングラスをくるくると回しながら、眼の奥で血の色の光を揺らしていた。


そして、一見あどけない銀髪の機械少女は、その指先に、世界を消し飛ばしかねない幽かな青い光点を凝縮させている。


暗殺者の指先が、ほんの一ミリでも震えれば――彼女の肉体は〇・〇一秒で灰になるだろう。


「……あの、その……今から降参って、まだ間に合いますか?」


クールな仮面は一瞬にして砕け散り、刺客のお姉さんは情けない音を立てて短剣を床に落とした。


カラン――。


両手を高く挙げ、今にも泣き出しそうな声を上げる。


「す、すみませんでしたぁぁ……!」


「座れ。」


リンが軽く手を振ると、周囲のS級モンスターたちは殺気を引っ込めた。


暗殺者の少女はびくびくと椅子に腰を下ろし、身体をぎゅっと縮める。


すると、極度の恐怖に晒されたせいか、顔が勝手に変化し始めた。


老人、屈強な男、妖艶な美女――。




数秒ごとに姿が入れ替わる。それは彼女にとっての「過剰なストレス時の防衛反応」だった。


「コードネーム、千面魔女。真名不詳。孤児。五歳で王国暗部に“保護”され、薬物改造を施されて『肉体変形』能力を獲得。」


リンは、つい先ほどシステムから引き出したカルテを手に、感情の起伏をほとんど見せない声で読み上げていく。


「任務のために踊り子、修道女、物乞い、さらには“ネズミ”に至るまで演じてきた。一〇二四種類の顔を持ち、あらゆる人間の声と癖を完全コピーできる。」


「だが――」


リンはカルテを閉じ、その瞳で彼女の奥底を真っ直ぐ射抜いた。


「お前は、自分の“本当の顔”を覚えているか?」


「……え?」


少女がぽかんと口を開ける。


否定しようとした舌が、喉の奥で固まった。


脳裏には無数の顔が浮かんでは消えていく。




娼館の踊り子。聖堂のシスター。橋の下の浮浪者。


だが――


(わたしは、誰?)


(どんな顔をしていた?)


(元の声って、どんなだった?)


ただ一つ、「自分」と呼べるはずの顔だけが、どうしても掴めない。


胃からせり上がってくるような恐怖が全身を飲み込んだ。


長年に渡る過酷なロールプレイの結果、彼女の自我は細かく割れてしまっていた。


――解離性同一性障害(DID)。


――典型的な「自己喪失」。


「思い出せない……わかんない……頭が, 頭が割れそう……っ」


「典型的な“セルフロスト”だな。」


リンは立ち上がり、引き出しから一枚の大きな鏡を取り出した。


水銀と魔導水晶を重ね磨きした、特製の魔導ミラーだ。それを、彼女の正面にそっと立てかける。


「鏡を見ろ。」


リンの声に、【精神干渉】の絶対命令が乗る。逆らうという選択肢を許さない、上位者の声だった。


「これから、お前の顔に貼りついている千の仮面を――一枚ずつ、はがしていく。」


「剥離開始。」


リンの指先が、そっと彼女の額に触れた瞬間――


「――――ああああああああああああっ!」


少女は、内臓を掻き回されるような悲鳴を上げた。それは肉体の痛みではない。魂そのものを組み替えられる苦痛だった。


鏡の中の映像が、狂ったように切り替わっていく。


老人の皺は溶けて消え、屈強な男の筋肉は霧散し、妖婦の厚化粧はどろどろに流れ落ち――


最後に残ったのは。


頬に小さなそばかすが散り、怯えたようにこちらを見つめる、ごく普通の少女の顔だった。


「これが、“血の通った人間”だ。」


リンは、そっとティッシュを差し出す。


「泣け。これは“道具”ではなく、“人間”として流す、最初の一滴だ。」


少女は、鏡の中の“見知らぬ自分”を見つめながら、震える手で頬に触れる。


指先に伝わる温度が、現実を確かめるようにじんわりと滲む。


次の瞬間――


「っ……うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」


堰が切れたように泣き崩れた。それは、十八年間押し込められてきた孤独と屈辱と恐怖が、一気に溶け出した音だった。


◇ ◇ ◇


十分後。


泣き疲れて目を真っ赤にした少女は、「ニーナ」という新しい名前を与えられ、入職契約書に拇印を押していた。


「ボス……いえ、院長。」


ニーナは鼻をすすりながらも、プロの刺客としての冷静さを取り戻しつつあった。その瞳の奥には、鋭い光が戻っている。


「暗部は、絶対に私を見逃しません。もうすでに、あなたのクリニック周辺には【禁呪・ロケーション・クリスタル】が配置されています。」


「三日後。国王陛下が中央広場で演説を行うと同時に、禁呪を起動し、第99層をまるごと消し飛ばすつもりです。」


「三日か。」


リンは眼鏡を押し上げ、口元に愉快そうな笑みを刻む。


「“世論戦”を仕掛けるには、十分な時間だ。」


「アリス。」


彼は銀髪の機械少女に視線を向ける。


「ネットワークに接続。」


「ブロック。」


蒸気仕掛けの義肢を持つドワーフの技術王に、軽く顎をしゃくる。


「ホログラム投影装置のフルスタックを構築しろ。」


「国王陛下のために――最高の“サプライズ・ギフト”を用意してやろう。」

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