第十四話 永夜カジノの“ウェルカム儀式”とゲーム理論の罠
(場所:地下城第六十六層・永夜都市)
転送門を抜けた瞬間。
陰鬱だったはずの地下城は、光と闇が入り乱れるネオンの海へと姿を変えた。
ここには昼も夜も存在しない。
あるのは永遠の闇と、瞬き続ける魔法看板の光。
巨大なカジノビルが貪欲な巨獣のように口を開け、冒険者と魔物を次々と呑み込んでいく。
リンと、秘書兼ナースのシルヴィがホールへ足を踏み入れた瞬間、鼻を突くのは金と欲望と、そして壊れた脳の臭いだった。
目を血走らせたギャンブラーたちが叫び声を上げ、狂ったように笑い、ある者は泣きながら自分の臓器や魂の権利書にサインしている。
「ようこそ、《深淵の名医》さん。」
赤いスポットライトが、突然フロアの中央を照らした。
高い黄金のバルコニーの上。
真紅のスリットドレスに身を包み、細長いシガレットホルダーを指に挟んだ冷酷な美女が、欄干にもたれていた。
氷のように白い肌。
人の魂を射抜く、血のように紅い双眸。
第六十六層の支配者――《鮮血大公》カミラ。
「どうしたの? あのド田舎の第九十九層に飽きちゃって、今日はお姉さんのところに遊びに来たわけ?」
カミラは赤い煙を吐き出しながら、せせら笑う。
リンはホールの中央に立ち、静かに周囲を一望した。
「診察に来た。」
大きな声ではない。
だが、その一言は、ホールの隅々まで澄んで届いた。
「ここは衛生環境が劣悪で、何より重度の《依存性精神誘導》が放置されている。」
「医者として、営業停止と是正を勧告する義務がある。」
「……営業停止?」
カミラは、巨万の富を積み上げても聞けないほどの「良い冗談」を聞いたかのように、喉の奥で笑う。
「ここでは、運こそが法律。もし店を閉めてほしいのなら――いいわ、ゲームをしましょう。」
指先で軽く弾くように合図を送る。
ゴウンッ。
リンの足元の床が割れ、巨大な、サビだらけの魔法ギロチンがせり上がってきた。
「これは入門ゲーム、《シュレディンガーの斬首台》。」
「刃には《因果律》魔法がかかっているわ。落ちる確率はちょうど五十パーセント。」
「さあ、先生。自分で“心を読める”と豪語するなら、座ってみなさいよ。あなたがそこに座るなら、あなたと話してあげてもいい。」
ホールが静まり返る。
全てのギャンブラーが、手を止めて息を呑んだ。
「リン様! 駄目です! あれは罠です!」
シルヴィが慌てて袖を掴む。
「彼女は胴元。確率なんて、いくらでも操作できます!」
だがリンは、彼女の手を軽く叩いて安心させると、そのままギロチンの前まで歩いていった。
一切迷わない。
刃に背を向けて腰を下ろし、優雅に足を組む。
さらには、ポケットから配信端末を取り出し、カメラの角度を調整し始めた。
「怖くないの?」
カミラの笑みが、わずかに引きつる。
「怖い?」
リンはネクタイを整え、頭上で煌めく巨大な刃を見上げながら、まるで夕食のメニューを選ぶかのような調子で答える。
「カミラさん、あなたはギャンブルをまるで分かっていない。」
「本物のギャンブルとは、確率を張ることじゃない。“人間”を張ることだ。」
リンは首を少し傾け、遥か離れたバルコニーに立つカミラを真っ直ぐ見据えた。
「あなたは、極端に自己愛の強いコントロールフリークだ。」
「あなたが本当に求めているのは、相手が恐怖に震えながら命乞いする、その瞬間だ。単なる殺害には興味がない。」
「もし僕が少しでも恐怖を見せたり、魔法で防御しようとしたなら――あなたは迷わず刃を落としただろう。なぜなら、それで“あなたの勝ち”が確定するから。」
「でも――」
リンは、自分の裸の首筋を指差した。
「今の僕は、自分から命を差し出している。」
「コントロールフリークにとって、“抵抗すらしてこない獲物”を殺す行為ほど、退屈で、侮辱的なものはない。」
「だから、僕はこう賭けた。」
「――あなたは、僕を殺せない。」
どよめきがホールを駆け抜ける。
宙吊りになった巨大な刃は、カミラの震える指先に連動して、耳障りな金属音を立てながら微妙に揺れ続ける。
だが、一向に落ちてこない。
――図星だった。




