第十二話 神のささやきと、元仲間たちの社会的死
画面の向こう側が切り替わる。
そこに映っていたのは、紛れもない地獄だった。
黒い波――いや、黒い海。
押し寄せる獣の群れが、地平線まで一面を覆い尽くしている。
かつて「剣聖」と呼ばれたレオは、その中央で泥水に腰を落としていた。
誇らしげだった黄金の鎧は見る影もなく砕け散り、手にしていたはずの聖剣も、情けない二つの残骸に成り果てている。
極めつけは――
高解像度のカメラが、彼の下半身をきっちりと捉えていた。
股間から広がる、あからさまな水溜まり。
そう。
このS級勇者は、数百万の魔獣が放つ「恐怖の威圧」の前に、盛大に失禁していた。
「も、もう無理だ……助けて……お母さ……」
レオは錯乱し、子どものように泣き叫ぶ。
そこに、かつての威風は一欠片も残っていない。
隣にいたはずの聖女マリーと魔導士ジャックも、とうの昔に気絶していた。
リンの「精神バリア」を失った彼らは、本物の悪意を前に、一般兵士以下の豆腐メンタルであることを露呈していた。
『うわぁ……レオ、本当に漏らしてるじゃん……』
『これがS級勇者? 笑い死ぬんだがwww』
『リンがいた時はあんなにイキってたのに、実力ゼロってことが証明されちゃったな』
『リン抜きのレオ、マジで野良犬以下で草』
世界中の嘲笑コメントが、レオのわずかに残っていたプライドを粉々に砕いていく。
「リ、リン殿! お願いだ、この通りだ!! あなたの精神干渉以外に、この事態を止められる者はいない!!」
ギルド会長は、ほとんど土下座する勢いで叫んだ。
リンは湯飲みをテーブルに置く。
立ち上がりはしなかった。
現場へ駆けつけることもない。
彼はただ、配信のマイクの位置を少し調整し、その瞳に深く重たい光を宿した。
「そこまで頭を下げられて、断るのも悪いしね。」
「じゃあ、“役立たず体質”がどこまでやれるか――世界に見せてあげようか。」
リンは大きく息を吸い込み、さきほどMAXレベルに進化した究極スキルを解き放つ。
【SSS級禁呪:全域・群体深度催眠(Global Mass Hypnosis)】
彼の声は、魔法通信を通じて一瞬で五十一層の距離を超え、王都上空へ、暴走する全ての魔獣の耳元へ、直接届いた。
それは怒号ではない。
子守歌のように柔らかく――だが決して抗えない、絶対の法則を帯びた「ささやき」だった。
「もう、暴れるのはおしまいだ。」
「今から――おとなしく寝なさい。」
パチン。
リンは指を鳴らす。
その軽やかな音は、世界の電源スイッチのようだった。
画面の中。津波のように押し寄せていた数百万体の魔獣たちの動きが、一斉に止まる。
次の瞬間。
ドオオオオオオオ……ッ。
それは攻撃音ではなかった。
数百万の巨体が、同時に地面へ倒れ込む音。
さっきまで耳を裂いていた咆哮は完全に消え去り、戦場には、レオのひきつった呼吸だけが、妙に間抜けに響いていた。
「……収束、した……?」
ギルド会長は口をあんぐりと開け、顎が外れかけている。
王都の市民も、全世界の視聴者も、ソファから一歩も動かなかった男を見つめたまま、言葉を失っていた。
一言。
ただの一言で。
国家を滅ぼしうる大災害が、消えてなくなった。
これは「干渉」ではない。
もはや「奇跡」だ。
リンはカメラに向かって、慈愛に満ちた――しかしどこか悪戯っぽい笑みを浮かべ、静寂を破る。
「危機は片付きましたね。会長、約束を忘れないでください。」
「お金はいりません。でも、王都中心部にあるギルド本部ビル、あれ結構広いですよね。」
「うちの診療所も、そろそろ支店を出したいと思っていたところでして。――明日までに空けておいてもらえますか?」




