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政略の盤上で笑うのは

作者: 栗原 あみ

第一王子ルシウスの執務室。

重厚な黒檀の机、背後に並ぶ書架、緊張に包まれた空気。

侍従と側近が控える中、ルシウスは勝ち誇った笑みを浮かべた。


「アメリア、時代は変わった。もはや古い政略結婚は不要だ。――この婚約は解消する。」


その宣言を受けたリヴィエール公爵令嬢アメリアは、わずかに眉を動かしただけで静かに紅茶を口に含む。

白磁のカップを置いた彼女の声音は、あくまで落ち着いていた。


「……そうでございますか。」


ルシウスは続けて声を張る。

「民心を集めるカリナこそ正妃にふさわしい。これで私の地位は揺るがぬ。」


アメリアは涼やかに問いかける。

「では、公爵家はもう不要、とお考えですの?」


「いや、違う。」

ルシウスは顎を上げて否定した。

「リヴィエール公爵家の後ろ盾は必要だ。だからこそ――おまえは私の最側近ユーリックに嫁げ。公爵家の顔はそれで保てるだろう。」


あまりに浅はかな算段。

“民心はカリナ、公爵家の力はアメリアを格下げして利用する”という都合のよい計画だった。


アメリアは微笑を浮かべ、氷のような瞳で言葉を返す。

「殿下は、公爵令嬢を“側近殿への下賜”とお考えなのですね。」


ルシウスの顔が怒りに染まり、拳を握りしめる。

「黙れ、アメリア! 私は第一王子だ! 私の決定に逆らえる者などいない!」


しかしアメリアはその怒声を受け流し、静かにカップを置いた。

「……他でもない我がヴァルメリア国第一王子のご命令であれば従いましょう。ただし、その結果が殿下ご自身をどこへ導くのか――ご存じの上であれば。」


アメリアは背筋を伸ばし、声を澄ませた。

「わたくしを正妃から退け、側近の妻に据える――それはつまり、公爵家を軽んじても構わぬと殿下が公言なさるのと同じこと。

これでは、他の諸侯にとっても『公爵家を軽んじてもよい』という前例となりましょう。」


ルシウスの眉がわずかに動く。

しかしアメリアは止まらない。


「婚姻目前での婚約破棄は、殿下ご自身が『約束を守らぬ人物』であるという印象を与えます。

婚姻は最も重要な国事行為と言っても過言ではありません。

その約束を殿下みずから反故になさるのであれば――他国は必ずこう考えるでしょう。

『貴族の重鎮であるリヴィエール公爵家でさえ名誉を守られぬのなら、我らとの約束も無にされるのではないか』と。」


彼女の声音は冷徹に続く。

「外交の場では、信義と面子こそが通貨でございます。

それを失った国は、いかに軍を備え財を積もうとも、誰からも信用されない。

――殿下、これから我が国とまともに友好を結んでくれる国が、果たしてあるとお思いですか?」


執務室の空気が凍りついた。

ルシウスの顔に焦りの色が浮かぶ。


「……わ、わかった! 今の話は取り消す! 婚約破棄も、ユーリックへの下げ渡しも、すべてなかったことにしよう! おまえは変わらず私の婚約者だ!」


アメリアはゆるやかに立ち上がり、裾を整えた。

「殿下のご判断、賢明でございますわ。

けれど――このように執務室に呼び出され、一方的に、側近へ下賜されかけた事実は消えません。

その代償をお示しいただきませんことには、父リヴィエール公爵も納得いたしませんわ。」


ルシウスは顔をこわばらせる。

「……代償、だと。何を望む。」


アメリアは澄んだ瞳で見据え、微笑んだ。

「先程の取消されたご命令について、内容を少々修正したく存じます。

取り下げていただくのは、私とユーリック様との婚姻のみで結構でございます。

私と殿下の婚約破棄につきましては、このまま受け入れさせていただきますわ。」


ルシウスの目が大きく見開かれた。

「わ、私の正妃が不満だと申すか! 我が正妃以上に価値のある位などないであろう!」

ルシウスの叫びは焦りに満ちていた。


アメリアは涼やかな微笑を浮かべ、澄んだ声で告げた。

「かような仕打ちを受けた後では、ルシウス殿下の正妃ほど、価値を感じない位は他にございません。

もう遅いのです、殿下。」


そして静かに続けた。


「隣国アルセリアのセドリック皇太子殿下に、未だ婚約者がおられないことはご存じでしょう?

実は、セドリック殿下と私は幼馴染なのです。

私の母リヴィエール公爵夫人はアルセリアの名門公爵家の出身にて、セドリック殿下の母君――現皇后陛下とは学生の頃からの親友でございました。

そのご縁ゆえに、私とセドリック殿下は幼き頃より交流があり、幾度も求婚を受けておりましたの。

もちろん、殿下との婚約がございましたのでお断りしておりましたが……殿下がカリナ嬢にご執心でしたので、こちらとしても何らかの手を打たねばならず。

残念ながら、この切り札を使う時が来てしまいましたわね。」


ルシウスは血相を変え、叫ぶ。

「アルセリアの皇太子に嫁ぐつもりか!?」


アメリアは静かな笑みを浮かべ、肯定の意を表す。


「国境を封鎖しろ!

リヴィエール公爵をアルセリアに渡らせるな!」


「もう遅いと、先程も申し上げました。」

アメリアの声音は氷のように冴えていた。


その時、執務室の扉が重々しく開いた。

扉の向こうにいたのは、リヴィエール公爵とアルセリア帝国皇太子セドリック・アルセインだった。

さらに、二人の後ろには、怒りに顔を紅潮させたヴァルメリア国王が立っていた。


ヴァルメリア国王は憤然と声を放った。

「セドリック皇太子とリヴィエール公爵から、すでに話は聞いたぞ。……勝手な真似をしおって。」


ルシウスは椅子に崩れ落ち、言葉を失った。


アメリアは国王の前に進み出て、深く一礼する。

「陛下。私はヴァルメリアを離れ、アルセリアの皇太子妃として嫁ぐこととなります。

けれども、ヴァルメリアとアルセリアの両国がより一層発展できますよう、両国の架け橋として尽力し続ける所存でございます。」


国王は重く頷き、そして情けなく椅子に崩れ落ちたままのルシウスに向かって厳命した。

「ルシウス。今日をもっておまえを廃嫡とし、王太子の位は弟に継がせる。己が過ち、しかと胸に刻め。」



アメリアはやがてアルセリアの皇太子妃、アメリア・アルセインとして迎えられた。

その聡明さと気品は宮廷に新たな風をもたらし、文化・交易・学術の交流は急速に進展した。


ヴァルメリアとアルセリアの街には活気が満ち、人々は彼女を「架け橋の姫君」と讃えた。


一方、第一王子ルシウスは廃嫡ののち、宮廷から遠ざけられ、誰からも顧みられることはなくなった。

その名は「軽率ゆえにすべてを失った王子」として歴史の片隅に残るに過ぎない。


だが、アメリア・アルセインの名は「二国の未来を結び繁栄を築いた象徴」として、永遠に人々の心に刻まれ続けるのであった。

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― 新着の感想 ―
カリナさんとやらはこの後どうなったのでしょう? ルシウス王子の一方通行で勝手に暴走しただけなら良いのですが。 もしも両想いで計画にも同意済み、もしくはカリナが誑かしたのであれば心証は変わりますね。
>私は第一王子だ! 私の決定に逆らえる者などいない! 何故、国王陛下がおわすことに思い至らないのか… 畏れ多い事、甚だしい、そして当然の結果に。 ありがとうございました♪
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