(96) “第三位”の女
肩にかかるほどの黒髪は無造作に下ろされ、両サイドの長めの髪が僅かに揺れている。
女性であることを隠しているわけではないが、彼女の雰囲気はあくまで冷たく、実務的だ。
体格はしなやかで無駄のない長身、まっすぐな姿勢は、長年の軍事訓練の成果を感じさせる。
かつての張り詰めた若さは影を潜め、代わりに成熟した静けさがそこにあった。
その姿を見たサイラスは、眉をわずかにひそめながら、ある家名を脳内で反芻した。
「アルジェロ……?」
その家名を口にした瞬間、彼の瞳がわずかに揺れる。
——覚えていないはずがなかった。
それは、あのレオン・アルジェロ伯爵の家名。
帝国の名門軍事貴族にして、武装派の象徴とも言える家名だ。
彼はもう一度ヴェロニカの顔を見つめ、ようやく気付いた。
「……君、まさかレオン・アルジェロの娘か?」
信じられないという声色と共に、その問いを発する。
「伯爵令嬢……だって?」
ノイッシュとアレックは、すでにその事実を知っていたようで、特に驚く様子はない。
一方、エレは眉をひそめながらも、興味深そうにヴェロニカを観察していた。
ヴェロニカは微動だにせず、淡々と返す。
「今にして気づくとは、誠に遅鈍なるかな。」
サイラスの口元が僅かに引きつる。
納得がいった——彼女の剣術と軍略の才、軍事学院での成績、そして帝国秘密機関への直行ルート。
すべて、アルジェロ家の後ろ盾があってこそ。
だが、それでも——この再会は、彼の予想を超えていた。
「つまり、君の父上の命令で、俺を監視しているわけか?」
試すような声音でそう言うと、ヴェロニカは冷たく彼を見返した。
「いいえ。私は皇帝陛下と宮廷総管の命を受けているだけ。
父とは関係ない。」
「……そうか。」
サイラスは面白そうに微笑み、目を細める。
「それと、念のため言っておくけど——私はあなたに興味はないわ、殿下。」
ヴェロニカのその一言に、エレがくすっと笑う。
「それは好都合ね。敵意をむき出しにされるよりは、ずっと扱いやすいわ。」
サイラスもまた、彼女に対する興味を深めていた。
伯爵令嬢にして、帝国の密偵。その立場で彼女が今後、どの“陣営”に立つのか——
それは、今後の鍵になるだろう。
ヴェロニカは腕を組み、ノイッシュとアレックへ視線を移す。
「さっきも言ったけど、ノイッシュ、アレック。今日の外出には同行しなくていい。」
「それは困るな。俺たちは殿下の護衛で——」
「帝都の治安を考えると、殿下を一人にするなんて——」
アレックも口を開く。
だが、ヴェロニカは鼻で笑いながら、言い放った。
「……辺境上がりの雑用兵に何ができるの? ここは帝都よ。任せるなら、専門家にすべきでしょう?」
その一言に、ノイッシュとアレックの顔色が一気に変わる。
まるで急所を突かれた獣のように、怒りの色が宿った。
「貴様、再度口にしてみよ!」
「雑用兵だと……! 俺たちは——!」
張りつめた空気が今にも弾けそうになったそのとき——
「まぁまぁ、休暇だと思えばいいさ。」
サイラスが飄々とした口調で場を和ませた。
「何だと!?」
「せっかく帝都まで来たんだ、少し羽を伸ばすのも悪くないだろ?
リタも一緒に連れて、街の案内でもしてやれば?」
不意に名前を出されたリタは驚いたように目を見開いた。
「えっ……ちょ、私はそんなつもりじゃ——」
「いい考えね。」
ヴェロニカが笑みを浮かべて便乗する。
「辺境騎士がうろつくと、目立つだけだもの。休んでいてちょうだい。」
「お前、わざとだろ……!」
ノイッシュが歯噛みするように睨むが、ヴェロニカは涼しい顔で返す。
「私の仕事は、状況を最適に保つこと。それだけよ。」
アレックはため息をつき、ノイッシュの肩をぽんと叩いた。
「まぁいいさ。帝都観光でもしてみるか。ここで腐ってるよりはマシだろ?」
「……まったく、殿下に言われたら仕方ないか。」
ノイッシュはしぶしぶ頷いたが、ヴェロニカに対する不満はその表情にありありと残っていた。
そのヴェロニカは、今度は真面目な表情でサイラスに向き直る。
「現在、あなたの正体はまだ公にはなっていません。
ですが逆に、“カイン”という名は帝都の一部ではすでに知られています。」
「カイン?」
サイラスが眉を上げる。
「ブレスト方面からの商隊や連絡役の中に、あなたを見た者がいるかもしれません。
“サイラス王子”として行動すれば、警戒される可能性が高くなります。
今日は“カイン”として動いたほうが無難です。」
それを聞いたサイラスは、肩をすくめた。
「好きに呼べばいいさ。俺はどうでもいい。」
だが、すぐ隣のエレに向き直り、やや低い声で囁く。
「でも——君だけは、本当の名で呼んでくれ。」
エレは一瞬だけ目を見開いた後、穏やかに微笑んだ。
「もちろんよ。」
その答えに、サイラスもわずかに口元を緩めた。
仮の名が帝都を歩く足跡になろうとも、本当の名前を呼んでくれる人がいれば、それでいい——




