(94) 朝光の狭間
朝の淡い光が布幕の隙間から差し込み、室内をやわらかな金色に染めていた。微かな涼気が空気に残り、静かな朝の気配が漂っている。
「サイラス、もう時間よ。」
控えめなノックの音に応じる気配はなかった。
ため息をついたエレは、静かに扉を開ける。
中に広がるのは、まだベッドに沈み込んだままのサイラスの姿だった。
彼は横向きに寝返りを打ち、赤い髪が少し乱れている。月長石のピアスがほのかな光を放ち、彼がまったく起きる気がないことを示していた。
「サイラス、もう約束の時間が迫ってるわよ。」
エレは穏やかな声で呼びかけるが、その声にはほんの少しの諦めが滲んでいた。
サイラスは布団を引き寄せ、顔の半分を埋めながら、かすれた声でうめいた。
「……もうちょっとだけ……」
「ダメ。ヒルベルト様の使者がもうすぐ来るわ。」
そう言ってエレが布団を引こうとしたその瞬間——
彼女の手首がぐいっと掴まれ、力強く引き寄せられる。
「きゃっ——!?」
思わず声を上げたエレは、そのままベッドに倒れ込んだ。
柔らかな寝具の中で、サイラスの腕にしっかりと抱きしめられる。
「……このままでいい。」
彼の低く、少しだけ気だるい囁きが、首元に落ちる。
温かな息が肌に触れ、彼が彼女の存在を確かめるように寄り添っていた。
「少しだけ……こうしていたいんだ。」
エレは驚きつつも、彼の腕の中で心臓の鼓動が少し早まっていくのを感じた。
「まさか……このままずっと寝てるつもり?」
手のひらで彼の胸を押すが、彼の腕は緩まない。
「いっそ……すべてを棄て去らんか?」
彼はぼんやりと呟く。
「異世界のことも、王太子も、皇位も……全部捨てて、どこか静かな場所でふたりで暮らそう。」
その言葉に、エレは一瞬だけ息を呑んだ。
——それは、冗談?それとも本気?
彼の顔は見えない。
だがその声には、どこか切実な響きがあった。
「もう……無理じゃない?」
エレは静かに答えた。
「私たちはもう帝都に戻ってきた。しかも監視付き。逃げ出すのは簡単じゃないわ。」
「……あのとき、ブレストで来なければよかった。」
サイラスは布団に顔を埋めたまま、吐き捨てるように言った。
そこには現実への抵抗と、自分への苛立ちが混じっていた。
エレはそっと首を振った。
「でも——あのときの私なら、あなたとは来なかったと思う。」
彼の腕が少しだけ緩む。
「……そうだな。」
背中を向けて、サイラスはようやく起き上がった。
その声から感情は読み取れない。
エレはゆっくりと身体を起こし、朝の光に照らされた彼の背中を見つめる。
まだ目覚めきってはいないが、彼はもう眠りに戻ることはなかった。
そっと背中に手を当て、優しく囁く。
「起きて。ほんとに時間ないわよ。」
沈黙ののち、サイラスはようやく肩を落とし、赤い髪をかき上げながら立ち上がった。
——新たな一日が始まる。
夢のような現実逃避から、また現実の舞台へと戻る朝だった。




