(93) 帝都の誘試
ヒルベルトはしばし沈黙した後、ゆっくりと目を閉じ、まるでこの議論を総括するかのように落ち着いた声で告げた。
「異世界の血統に関する話は、ここまでにしておきましょう。」
彼は再び目を開き、視線をサイラスへと向ける。
「現在、銀凰区にて、殿下のための仮住まいを用意しております。」
「銀凰区……?」
サイラスは軽く眉を上げた。
銀凰区は帝都でも最も安全かつ秘匿性の高い貴族区であり、通常は皇族とごく限られた重臣のみが居住を許される場所だ。
ヒルベルトは静かに頷く。
「殿下本来の邸宅は帝都外にあり、馬車で半日以上を要します。
現在の情勢では、そのような移動は望ましくありません。」
その言葉に、エドリックは小さく笑みを浮かべ、皮肉を込めた口調で言った。
「つまり、嫌でも帝都の中に閉じ込められるというわけだ。」
「監視たるや、然り、王太子殿下。」
サイラスは肩をすくめ、皮肉交じりに応じる。
「まあ、そう言ってもいい。
なにせ今、帝国中が君を注目しているんだからな。」
エドリックは肩をすくめ、あっさりと認める。
「武装派、宮廷内部、果ては隣国まで——
君の一挙手一投足に目を光らせている。
邸宅への帰り道まで調べられるのはご免だろう?」
サイラスは返答せず、代わりに隣に立つエレを一瞥した。
エレは既にこの展開を予測していたかのように落ち着いており、驚いた様子も見せなかった。
その静かな瞳には、すでに覚悟が宿っている。
「今は、これが最も安全な選択です。」
エレは穏やかに言った。
「帝都の情勢は変動しています。
宮廷の目の届く範囲にいる方が、むしろ得策でしょう。」
サイラスは小さく笑った。
「……拒否権はなさそうだな?」
ヒルベルトは淡々と答えた。
「最善の措置です。」
サイラスは立ち上がり、手を広げて軽く笑った。
「なら——従うしかないな。」
エドリックはその様子を眺めながら、赤い瞳に興味深げな光を宿し、口を開いた。
「折角なれば、帝都を巡りて如何か?」
サイラスは半眼になり、エドリックをじっと見つめた。
「……帝都見物、か?」
エドリックは口の端を上げる。
「何年も戻ってこなかったんだ。
今の帝都がどうなっているか、興味はないか?」
サイラスはしばし黙考し、鋭い視線を向けた。
(……単なる観光なんてわけがないな。)
彼は悟った。これは誘いであり、同時に試しでもある。
「……俺に環境に慣れさせたいのか、
それとも、今の帝都が誰のものか見せたいのか。」
皮肉気に返すと、エドリックはあっさりと笑った。
「両方だよ。
でも、ここはお前の故郷だ。
よそ者みたいに振る舞う必要はないだろう?」
その時、エレが口を開いた。
「……むしろ、良い機会だと思うわ。」
彼女の氷色の瞳には静かな光が宿る。
「帝都に留まると決めたなら、現状を知るべき。
各派閥の動向、市民の空気、貴族たちの立ち位置——
すべて、あなたにとって必要な情報になるわ。」
彼女は最後に静かに付け加えた。
「私も、この帝都という場所をこの目で見たい。」
サイラスは彼女を見やり、薄く笑った。
「……いと大胆なる志よ。」
エレは肩をすくめ、微笑んだまま何も言わなかった。
そこへヒルベルトが静かに続けた。
「必要であれば、護衛をお付けします。」
サイラスは皮肉気に眉を上げた。
「迷子防止か?
それとも暗殺防止か?」
ヒルベルトは表情を変えずに答えた。
「両方です。」
その冷淡な返答に、サイラスは小さく笑う。
「ずいぶん物騒なところだな、帝都は。」
だが、その目にはわずかな興味の光が宿っていた。
護衛という名の監視——
それも承知の上だ。
だが、それでいい。
どうせこの帝都は、もうかつて知っていた場所ではない。
「——なら、王太子殿下の言葉に甘えて、
この帝都を、見て回るとしよう。」
サイラスはゆっくりと歩き出しながら、意味深な笑みを浮かべた。