(9) 選ばれし駒
——記憶の狭間に、過去が揺らぎ始める。
皇宮の大広間。
その最奥——王座の上に、男が静かに座していた。
ラインハルト・ノヴァルディア。
冷たく、威圧感に満ちた帝国皇帝。
「皇子をエスティリアへ送る。」
「和平交渉の担保として。」
広大な宮廷に響く、冷徹な声。
廷臣たちは誰一人として言葉を発しない。
ただ、沈黙のまま列を成し、帝の決定を受け入れる。
そして——
その瞬間、サイラスは悟った。
——自分は、初めから皇族ではなかったのだと。
彼の母は、どこの誰とも知れぬ平民。
一方、エドリックは皇后の子。
帝位継承の正統な権利を持つ者。
サイラスは、生まれた時から「不要な存在」として定められていた。
だが、今になって皇帝は彼を思い出した。
必要だからだ。
帝国が『人質として差し出す皇子』を求めたその時、選ばれるべき者は——決してエドリックではなかった。
そして、彼が選ばれた。
エドリックの名を与えられ、異国の王都へと送られることが決まった。
抵抗は許されない。
拒否権など、最初から存在しない。
ただ、受け入れるしかなかった。
あの日。
彼は馬車に乗り込んだ。
耳に響くのは、衛兵たちの規則正しい足音。
振り返れば、壮麗な宮廷が目に入る。
あまりにも眩く、何もかもが遠い。
——そしてその瞬間、サイラスの未来は、この宮殿とは何の関わりもなくなった。
◆ ◆ ◆
数年後——。
彼が再び帝国の大地を踏んだ時。
出迎えたのは、華やかな宮廷ではなかった。
エドムンド侯爵の屋敷だった。
静かに立ち尽くし、その厳格で飾り気のない邸宅を見上げる。
そこには、何の感慨も湧かなかった。
ここが……「新しい家」だというのか?
「——ここが、あなたの新しい家です。」
執事の声音は、低く落ち着いていた。
「今日から、あなたは侯爵の養子となります。」
サイラスはゆっくりと視線を上げる。
冷静な執事の目を、真っ直ぐに見据えた。
「カイン坊ちゃま。どうぞ、よろしくお願いいたします。」
カイン・ブレスト。
これが、彼の新しい名。
彼は、しばしの沈黙の後、目を伏せる。
反論はしなかった。
かつて、エスティリアでは**「エドリック」**という名を与えられた。
それは、己のものではない名。
人質として、異国の宮廷で生きるための仮初の名だった。
そして今——。
再び帝国へ戻り、新たな名を与えられた。
今度は、辺境の侯爵家の養子として。
——彼に、「選ぶ」権利など、初めからなかった。
皇族の影として生きた過去。
今度は、辺境貴族の「息子」として生きろというのか。
サイラスは、ゆっくりと息を吸う。
そして——微笑んだ。
まるで、何の反発もなく、この運命を受け入れたかのように。
「……よろしくお願いいたします。」
穏やかな声で、静かにそう言った。
だが、その瞬間——。
彼の胸の奥に、重く冷たい枷が嵌められる音がした。
◆ ◆ ◆
そして、適齢に達した彼は——帝国軍事学院へ送られた。
その時の彼は、ただ静かに日々をやり過ごすつもりだった。
人波に紛れ、何者でもない一兵士として生きる。
そうすれば、帝国で穏やかに生きられると。
——そう、思っていた。
——エドリックが訪ねてくるまでは。
剣術場。
陽光が差し込む訓練場の中心で、彼は向かい合う。
帝国王太子、エドリック・ノヴァルディアと。
「……俺を、失望させるなよ。サイラス。」
軽やかな声音。
だが、その言葉の裏には、隠しようのない鋭さが滲んでいた。
サイラスの指が、握る剣の柄をわずかに締める。
ゆっくりと顔を上げた。
陽光の中に立つ、帝国王太子。
——どれほどの時が過ぎても、自分の本当の名をこうも率直に呼ばれたのは、これが初めてだった。
「……俺に接触した目的は、試すためか?」
静かに問いかける。
その声には、冷えた刃のような鋭さが宿っていた。
エドリックは、すぐには答えない。
わずかに首を傾け、愉快そうに唇を吊り上げる。
そして——
剣の切っ先を、ひょうひょうとした仕草でサイラスへ向けた。
「さあ、どうだろうな?」
淡々と、しかし試すような声音。
サイラスは、一瞬だけ沈黙する。
——そして、微かに笑った。
ゆっくりと剣を掲げ、構えを取る。
時間が経つにつれて、サイラスは次第に気づき始めた。
エドリック王太子が、彼が想像していたほど単純な人物ではないということに。
最初は競争に過ぎなかった。
戦術の授業では、お互いに挑み合い、
軍事演習では、互いに実力を競い、
各種の試験では、トップを争った。
しかし、何度も対決し、何度も戦いを繰り返すうちに、
二人の間に奇妙な相性が生まれた。
——ライバルでありながら、最も頼もしい味方でもあった。
サイラスは、学院での最後の戦いを今でも鮮明に覚えている。
エドリックとの決闘。
彼が剣をエドリックの前に構えたとき、
王太子は冷静に微笑んで、こう言った。
「どうやら、君が勝ったようだな。」
その言葉には驚きもなく、どこか諦めのような響きがあった。
結果的に、サイラスは軍事学院の首席卒業生となった。
だが、彼はあえて目立つことを避け、ブレストに帰郷した。
貴族としての生活を送り、無為に日々を過ごす若者として。
それは彼の選択であり、同時にエドリックに対して「権力を争うつもりはない」という意思を示すためでもあった。