(88) 盤面の開幕
ラインハルトは静かにこの探り合いの対話を見届け、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「ようやく……この権力のゲームを理解し始めたようだな。」
低く落ち着いた声音。サイラスの反応に満足したかのような響きだった。
だが、対話が終息へ向かう中で、ラインハルトはゆっくりと目を閉じ、わずかに疲労の色を滲ませた。
深い溜息をつきながら、今度はより穏やかで静かな口調で言葉を続けた。
「サイラスが帝都へ戻ったとはいえ、すぐに決断を迫るつもりはない。」
彼は室内の全員を一瞥し、最後に再びサイラスに視線を向けた。
「まずは……この帝国が今どんな姿をしているか、自らの目で確かめてこい。」
「人の言葉だけを信じるな。お前自身が、己の意志で見極めろ。」
サイラスはその言葉を聞き、静かに目を細める。
ラインハルトは、無理に彼に選択を迫ろうとはしていない。
むしろ、自ら歩み、見て、感じた上で決断することを望んでいる——その意図が見えた。
(……猶予か、それとも試練か。)
サイラスの心にそんな疑念が過ぎる。
エドリックが横目で彼を見やり、どこか諦めたような、苦笑めいた微笑みを浮かべた。
「父上、変わらぬ御方よ。」
「自由に選べと言いながら、巧みに導きたもう。」
ラインハルトは否定せず、ただ微笑みを浮かべるだけだった。
その様子に、サイラスは改めて確信した。
この帝国の権力の本当の掌握者は、未だにこの男——鋼鉄の皇帝ラインハルト・ノヴァルディアだ、と。
ヒルベルトは静かに頷き、何も言わずにその決定を受け入れた。
エドムンド侯爵もまた、無表情のまま口を開く。
「……それが賢明だろう。今、サイラスに会いたがっている者たちは多い。」
彼は穏やかな口調で続けた。
「武装派だけでなく、軍部、宗教勢力、そして王太子派とサイラスの間で"均衡"を図ろうとする中立貴族たちまでも。」
「皆、殿下と直接顔を合わせたうえで、自らの立ち位置を決めようとしている。」
その言葉に、サイラスの目がわずかに細められる。
(……つまり、これからが本番だ。)
帝都が安穏でないことは知っていた。
だが、想像以上に複雑な盤面が広がっている。
すでに全勢力が動き出している。
彼がどちらに立つかを、皆が息を潜めて見極めようとしている
。
——父王ラインハルトは、強制せずに自らをこの盤上に押し出した。
——エドリックは、試すようにその成り行きを見守っている。
全ての者が、彼の一挙手一投足を見ている。
そんな中、そっと——
エレが手を伸ばし、彼の手を優しく握った。
彼女の指先はひんやりとしながらも、確かな温もりを宿していた。
言葉はなかった。
だが、それだけで十分だった。
——彼女は、彼と共に歩むと決めたのだ。
彼女は、単なる政治の駒ではない。
運命に流されるだけの存在でもない。
自らの意志で、サイラスの隣に立つことを選んだのだ。
サイラスは彼女を見下ろす。
その氷のような青い瞳には、恐れも、迷いもない。
ただ、まっすぐな信念だけが宿っていた。
その確かな想いに、サイラスは微かに笑み、ぎゅっと彼女の手を握り返した。
ラインハルトは、二人の交わされたその手に視線を落とし、何も言わずに静かに目を閉じた。
「——今日のところは、ここまでだ。」
皇帝のその一言で、謁見は静かに幕を下ろす。
だが——
この帝国を巡る権力の戦いは、今、始まったばかりだった。




