(87) 琥珀の叛意
サイラスは静かにエレを見た。
彼女の蒼い瞳は、ただまっすぐに彼を見返していた。
これが現実——
抗うことのできない、帝国の現実だった。
彼女の血筋は、彼女自身に選択肢を与えなかった。
もし今、自分がここで手を引けば、エレは帝国貴族たちの政治の道具として扱われ、感情のかけらもない結婚に押し込まれるだろう。
——それを、彼女はすでに理解していたはずだ。
それでも彼女は、帝国に戻ることを選び、自分の隣に立つことを選んだ。
そして自分は——
彼女に何ができるのか?
サイラスの拳が、静かに握り締められる。
今の自分には、彼女を守るだけの力がない。
「辺境貴族の養子」という立場にすぎず、政治的な権力も、軍も、発言力さえも持たない。
——ただ意思を持つだけでは、現実を変えることはできないのだ。
彼は室内を見渡した。
目に映るのは、この帝国の核心を握る三人。
ベッドに身を預けながらも、なお獣のごとき気配を放つ、皇帝ラインハルト・ノヴァルディア。
その隣、まるで舞台の指揮者のように冷静な笑みを浮かべる、王太子エドリック。
そして、沈着な目で一部始終を観察し続ける、宮廷総管ヒルベルト・ヴァレンタイン。
「……権力がなければ、彼女を守れない。」
サイラスは低く、だが決意を込めて呟いた。
エドリックは、くすりと笑った。
「サイラス。」
彼の声にはどこか皮肉めいた響きがあった。
「お前、自分が俺に勝てるとでも思っているのか?」
その紅い瞳には、絶対的な自信が宿っている。
「王族の身分を取り戻したところで、皇位継承者は俺だ。」
サイラスは、その言葉に対してふっと口角を上げた。
気の抜けたような、しかしどこか意味深な笑み。
「……煩わしきのみ。」
彼は軽く首を振り、肩の力を抜いたように見せた。
「争うつもりはない。」
だが心の奥底では、冷めた認識を刻み込んでいた。
——争わなくても、巻き込まれる。
エドリックは、サイラスが直接自分と争うつもりがないことなど、最初から承知していた。
それでも、彼はサイラスをここへ引きずり戻した。
なぜか。
サイラスはふと気付いた。
エドリックは、王位を脅かされることを恐れていない。
彼が本当に求めているのは——
「武装派を潰すための駒。」
異世界の血を持つサイラス。
彼を旗印に担ぎ上げようとする武装派。
そして、それを利用して勢力を一掃するエドリック。
もしサイラスが武装派につけば、
エドリックは「反乱分子」として武装派を正当な手続きで殲滅できる。
逆に、サイラスが武装派を拒絶すれば、
内部から分裂し、武装派は自壊する。
どちらに転んでも、エドリックにとっては都合がいい。
「……さすが冷徹なる策士よ。」
サイラスは、改めてエドリックを見た。
彼は興味深そうにこちらを見つめ、次の一手を待っている。
サイラスは、言葉を選ぶように一瞬間を置いた後、静かに口を開いた。
「俺は、王になるつもりはない。」
「だが——」
琥珀色の瞳に、鋭い光が宿る。
「俺を駒と扱わんとするなら、容赦はせぬ。」




