(86) 王冠の重圧
寝室のもう一人の男が一歩前に進み出る。
その動きに合わせて、深紅のローブがわずかに揺れた。
年の頃は五十代半ば、厳格な表情と鋭い鷹のような眼差しを持つ男。
彼の名は——
ヒルベルト・ヴァレンタイン。
帝国の宮廷総管であり、帝国内部の情報と歴史を掌握する要職に就く人物である。
「もし殿下が望まれるのであれば、正式に王族としての身分を公表し、その地位を確立することが可能です。」
彼の口から静かに告げられた言葉に、寝室の空気が一瞬緊張する。
エドリックは表情を変えず、貴族らしい冷静さを保ったまま。
エドムンド侯爵もまた、無言のままサイラスの反応を注視している。
「……私の身分を、公にするのか?」
サイラスは眉をひそめ、低く問い返す。
ヒルベルトは淡々と続けた。
「ただし、それは帝国内政に大きな試練をもたらします。」
その声には一切の感情が乗っていない。
まるで、決まった未来を読み上げるかのようだった。
「現時点では、皇位継承に関して表向きは安定して見えますが、実態は違います。」
ヒルベルトの視線が室内を横切り、再びサイラスへと注がれる。
「もし殿下が正式に身分を回復されれば、それは帝国の勢力均衡に甚大な影響を及ぼします。
第一に、王太子派への圧力となるでしょう。」
サイラスはゆっくりとエドリックへ視線を移した。
エドリックは微笑を浮かべ、あくまで冷静に告げる。
「つまり、皆が考え始めることになる。
——『果たして我こそ唯一の後継者か?』と。」
「これにより、多くの貴族が立場を再考し、軍部や宗教勢力、さらに同盟国までもが、帝国の未来を新たに評価し直すことになる。」
ヒルベルトは静かに続ける。
「今の安定は、エドリック殿下が唯一の正統な後継者であるという前提に基づいています。
そこにサイラス殿下の存在が加われば、その前提自体が揺らぐことになるのです。」
サイラスは眉をひそめた。
なぜ、それがそれほどまでに問題になるのか、すぐには理解できなかった。
「現状を維持する方が良いのでは?」
疑問を込めた声で問う。
「エドリックが後継者なら、速やかに位を譲ればよからん。
そうすれば無駄な争いも防げるだろう?」
エドリックは微かに溜息をつき、わずかに身を乗り出す。
「サイラス、お前は未だ悟らぬか。」
彼の紅い瞳に鋭い光が宿る。
「俺がさっき言ったように、サルダン神聖国、そしてラファエットが既に動き出している。」
「帝国内の武装派も、必ず動く。」
「彼らはいまだに、異世界の力こそが帝国を最盛期へと導くと信じている。」
エドリックの声は揺るぎなかった。
「お前は、彼らが何もしないとでも思うか?
——必ず、お前を担ぎ上げようとする。」
「それは、お前自身の意思とは関係ない。」
「勢力が『王』を必要とした時——
彼らは新たな王を"作り出す"。」
その言葉に、室内の空気が再び静まり返る。
サイラスはわずかに顔をしかめた。
彼は権力争いに巻き込まれることを望んでいない。
帝位に座ることなど、なおさらだ。
「……俺は、王になるつもりはない。」
サイラスはきっぱりと断言する。
エドリックはふっと微笑む。
「だが、物事はお前の願い通りにはいかない。」
ヒルベルトも静かに補足する。
「殿下が生きている限り、そしてその血を持っている限り——
殿下は永遠に『潜在的な変数』であり続けます。」
しかし、それだけでは終わらなかった。
エドムンド侯爵が低く告げる。
「サイラス、お前一人だけなら、まだ事態は単純だった。
だが——今は違う。お前は、エレノア姫を連れて戻ってきた。」
サイラスは息を呑み、侯爵を見つめる。
「本来なら、エレノア姫はサルダン神聖国に渡るはずだった。
——それならば、帝国の政局に影響は及ばなかっただろう。」
エドムンドは淡々と続ける。
「だがお前は、彼女を使節団から奪還し、帝国へ連れ帰った。」
「つまり——
お前自身が、サルダンとの対立側に立ったということだ。」
サイラスは小さく息を呑む。
「もちろん、お前はここを去ることもできる。
辺境へ戻り、全てに無関心を装うことも可能だ。」
エドムンドの口調は穏やかだったが、その内容は冷酷だった。
「だが——
エレノア姫が無事でいられる保証は、ない。」
ヒルベルトが冷静に続ける。
「聖女の血脈——
それ自体が、計り知れない政治的価値を持つ。」
「彼女は、いずれ必ず誰かの手に渡る。」
「武装派は、彼女を異世界派閥の支持基盤を強固にするため、
ある貴族の正妃に据えようとするかもしれない。」
「あるいは——
王太子妃とすることで、エドリック殿下の権威を一層高めようとするかもしれない。」




