(82) 月長石の誓い
客間には、彼とエレのふたりだけ。
いつになく静寂な空気が流れ、だがその静けさの奥には、言葉にできない感情が確かに息づいていた。
エレは何も言わずに手を差し出す。
その手のひらの上には、見覚えのある月長石のピアス——かつて彼が手渡したあの飾りが、静かに横たわっていた。
「これ……やっぱり、あなたがつけていたほうがいいと思うの。」
彼女の声は穏やかでありながら、どこか抗えない意志を宿していた。
サイラスは一瞬だけ目を細め、視線をそのピアスに落とした。
今も変わらず澄みきった光を放つ月長石は、差し込む光の中で淡く輝いており、まるで彼女の氷のような蒼い瞳を映し出しているかのようだった。
「……君が持っていた方がいいんじゃないのか?」
わざと軽く返すような口調だったが、彼の手は伸びなかった。
エレは小さくため息をつくと、そっと一歩近づき、自らの手で彼の耳にピアスをつけた。
その冷たい感触が肌に触れた瞬間、サイラスの心臓がわずかに跳ねた。
「これを返された時、あなたは私と距離を置きたいって……そう思った。」
エレは静かに言った。優しく、けれど確かな目で彼を見つめて。
サイラスは沈黙し、やがてふっと笑った。
「……わかってたんだな。」
このピアスはエレが彼に贈ったもの。
しかしそれだけではない。彼女の母である蒼月の聖女が直接“聖女の力”を込めたものでもあり、神授の力を抑える特別な意味を持っていた。
サイラスは、その意味をずっと理解していた。
——ただの装飾ではない。これは、母娘からの「守り」だった。
「どうして、ずっと言ってくれなかったの?」
彼女の問いかけに、サイラスは目を伏せて微笑んだ。
「……いずれ君が思い出すと思ったからさ。」
エレは小さく笑い、ピアスを軽く指先でなぞった。
「じゃあ、今度こそ……外さないよね?」
「君に斯く言われて、外す術もなからん。」
彼は肩をすくめたが、その声にはかすかな優しさが滲んでいた。
——このピアスは、守りであり、約束でもある。
次の瞬間、サイラスは彼女をそっと引き寄せた。
「サイ——」
エレが言葉を発するより早く、彼の腕が彼女を抱きしめる。
彼の体温、彼の息遣い——それらすべてがエレを包み込む。
額に頬を寄せながら、彼は彼女の存在を確かめるように、深く呼吸を重ねた。
「これを……私が答えと受けしめてもよからんか?」
彼女の声は震えながらも、どこか楽しげだった。
「……罰だよ。」
サイラスの声は低く、かすかに嗄れていた。
「さっき、あんなことをした君への、ね。」
エレは少し目を丸くし、それから思い出して小さく笑った。
彼の瞳をなぞり、鼻筋を辿り、唇に触れて、さらにその下まで——
いたずらのような、挑発的な指先の軌跡を。
「ふふ……それじゃあ、いかなる報いが待つや?」
サイラスは軽く息を吐き、彼女の瞳を真っ直ぐ見つめた。
その琥珀色の目には、いつになく真摯な熱が灯っていた。
「これで十分だ。」
そう囁くように言うと、彼はそっと彼女の唇を奪った。
——その瞬間、言葉はすべて沈黙に溶けた。




