(81) 陽の戯れ
エレは一歩踏み出し、ふたりの距離を一気に縮めた。
サイラスが簡単に逃げられないように。
彼女はゆっくりと手を伸ばし、その指先で彼の頬にそっと触れた。
「あなたの瞳はね、太陽みたいに綺麗よ。」
そう囁きながら、親指で彼のまぶたを優しくなぞった。
サイラスの呼吸が、一瞬止まる。
彼女の指は彼の鼻筋を辿り、唇の端へと滑り落ちる。
そして、露わになった犬歯を指先で軽く押すと、エレはくすっと笑った。
「この牙……笑うたびに見えるの、すっごく可愛いのよ。」
さすがのサイラスも反応に困ったのか、言葉を失っていると——
その様子を見ていたノイッシュが、思わず吹き出した。
「ぷっ……」
アレックは慌てて目を逸らしたが、口元がピクピクと引きつっているのが隠せない。
笑いを堪えているのは明らかだった。
「……エレ、もうやめろ。」
サイラスは低い声で言った。語調には明らかな焦りが滲んでいた。
けれど、エレは首を振り、やめる気配など微塵も見せない。
彼女の指先はさらに下へと滑り、鎖骨をなぞりながら、その胸元にぶら下がっている琥珀のペンダントへと触れる。
サイラスの喉仏が、わずかに動いた。
——その手がさらに下へと滑ろうとした、その時。
サイラスは素早く彼女の手を掴み、ぎゅっと握りしめて動きを止めた。
「……やりすぎだ。」
彼の声はかすれ、低く、抑えきれない熱を孕んでいた。
だがエレは、ほんのりと微笑み、さらに身を寄せる。
「いつもはあなたが人を翻弄してばかりでしょ?
少しぐらい、お返ししてもいい頃じゃない?」
「……」
「前回の、ちょっとしたお返しよ。」
そう言って、彼女は明るく笑った。
——あの夜。彼の部屋での出来事を、彼女は忘れていなかった。
サイラスは深く息を吸い込み、なんとか自制心を保とうとした。
まさか、彼女が斯くも大胆なる振る舞いをなすとは……
しかも、自分の騎士たちの前で、だ。
彼はじっとエレを睨みつける。
その目には熱が宿り、低く唸るような声で警告した。
「これ以上やったら……俺、もう抑えられる自信ないぞ。」
エレはいたずらっぽく微笑んだ。
「どうするの?」
彼の掌の中で、彼女の指がわずかに動く。
そのわずかな抵抗すら、まるで彼の理性を試すようだった。
喉仏が上下する。
——キスしたい。
その衝動が、彼の胸の奥を強く突き上げる。
そのとき、ついにノイッシュが堪えきれずにわざとらしく咳払いをした。
「えーっと、殿下、おふたりとも……僕たち、まだここにいますからね。」
リタは後ろで顔を覆い、目を逸らしていた。見るに堪えない、という表情だ。
アレックは額を押さえ、もはやこういう場面に慣れているはずなのに、やはり呆れを隠せない様子だった。
三人は目を合わせ、そしてほぼ同時に小さく吹き出した。
「へぇ、殿下……これぞ愛の誓いなるや?」
ノイッシュはニヤニヤと笑いながらアレックの肩に腕を回し、からかうように言った。
「さっきのはこれにて契りを結ばれたか? 戦場で突撃するよりスリリングだったんですけど。」
アレックはため息をつき、ノイッシュの腕を払いのける。
「黙れ。これ以上火に油を注ぐな。」
だがその口元には、明らかに笑みが浮かんでいた。
——ようやくこのご主人様も、自分の気持ちに素直になれたか。悪くない。
「でも、まあ……これで良かったんじゃないか?」
アレックの声には、どこか本音が混じっていた。
「そうそう、」ノイッシュは真面目なふりをしてうなずく。
「うちの殿下はさ、得意技が『どうでもよさそうな顔して全部我慢する』ってやつだからね。」
サイラスの目尻がピクリと動いた。
エレの行動にすでに動揺していた彼にとって、追い打ちをかけるこのふたりの無遠慮な言葉は、まるで心にナイフを突き刺されるような気分だった。
「……お前ら、今すぐ黙らせてやろうか?」
その低い声と、琥珀色の瞳に宿る静かな殺気に、ノイッシュは楽しげに笑いながら返した。
「無理ですねー。こんなに動揺してる殿下なんて、めったに見れないんですもん。」
「出ていけ。」
「はーい、仰せのままに〜」
ノイッシュは両手を挙げて大袈裟に貴族の礼をし、アレックと共に部屋を後にした。
リタは最後に控えめに一礼しながら、まだ少し頬を赤らめたまま扉の方へ向かう。
そして、扉を閉める直前——小さな声で、そっと言葉を添えた。
「……殿下、本当に……姬様のこと、好きなんですね。」
扉が閉まり、部屋は静寂に包まれた。
エレは去っていく背中を見送りながら、そっと微笑んだ。




