(8) 狩りの暗闘
朝霧がまだ辺りを包み、木々の梢には未だ溶けぬ露がきらめく。
ひんやりとした草木の香りが漂う静寂の中、狩猟犬が地を這うように前へと進み、獲物の気配を探っていた。
その後方、数名の護衛が馬を操りながら距離を保つ。
湿った土を踏みしめる馬蹄の音が、落ち着いた響きを奏でる。
先頭を行くのは、一人の騎士——否、王太子。
エドリック・ノヴァルディア。
漆黒に近い深藍の狩猟服を身にまとい、風になびく墨藍のマント。
陽光を受けて淡く輝く金髪、そして——鋭く獲物を捕らえる鷹のような紅の瞳。
彼は馬を操る仕草ひとつとっても優雅で、皇族特有の威厳を漂わせている。
だが、彼の名が帝国に響く理由は、その高貴な血筋だけではない。
この王太子は、すでに軍を掌握する実力者であり、並外れた野心を持つ男だった。
エドリックは、隣を行く紅髪の青年をちらりと見やる。
どこか愉快そうな笑みを浮かべながら、軽く口を開いた。
「久しぶりの狩りだな。……まさか腕が鈍った、なんて言わないだろう?」
カイン・ブレスト——いや、サイラス・ノヴァルディア。
彼は薄く唇を吊り上げ、淡々とした口調で返す。
「それより、今日俺をここへ呼んだ理由のほうが気になるな。」
エドリックはすぐには答えなかった。
代わりに、手にした弓の弦を引く。
狙いを定め——。
次の瞬間。
矢が、風を裂く音を立てて放たれた。
一直線に、深い森の奥へと消えていく——。
「……最近、エスティリアの亡命王女に興味を持つ貴族が多いそうだ。」
何気ない雑談のような口調で、エドリックが呟いた。
サイラスの指先がわずかに動く。
しかし、彼は目を上げなかった。
「ほう? なぜだ?」
短く問い返す。
エドリックは口元に笑みを浮かべ、軽やかな声で答えを投げた。
「彼女は——かつて王太子妃になりかけた身だからな。」
サイラスの琥珀色の瞳が、ふと持ち上がる。
光を受けて、僅かに煌めいた。
——エドリックの言葉が、彼の意識を引いたのが分かる。
王太子は、そんな反応を待っていたかのように、弓を収める。
どこか愉快そうに肩をすくめながら、さらりと言葉を続けた。
「もし彼女が当時、婚姻を受け入れていれば——」
「今ごろは帝国の人間になっていただろうな。」
「……だが、エスティリア王は結局、何の返答もしなかった。」
「そして、あの国の政変が起きた。」
彼の声音は淡々としていた。
だが、赤い瞳の奥に宿る光は、獲物を見極める狩人のそれだった。
サイラスは微かに眉を上げる。
しかし、何も言わない。
エドリックは、その沈黙すらも楽しんでいるように、さらに言葉を重ねた。
「……ただな。」
「どうやら、それは王の決定ではなかったそうだ。」
彼は、弓の弦を軽く弾きながら、微笑を深める。
「聖女の意志だったらしいな。」
「異世界の聖女は——娘を政略結婚で縛るより、自由な恋を望んだ、という話だが?」
サイラスの指が、ほんの僅かに動く。
だが、それでも彼は何も言わなかった。
「それに——」
エドリックは、何気ない調子で続けた。
「当時、縁談を申し込んだのは俺だ。」
「エスティリアにいたあの皇子ではなく、な。」
風に揺れる金の髪。
赤い瞳が、じっとサイラスを捉える。
「それも、彼女が拒んだ理由の一つかもしれない。」
その声音は、どこまでも軽やかだった。
だが、言葉の端には確かに何かを探る色が滲んでいた。
サイラスは微かに目を細める。
唇の端に、意味の読めない笑みを浮かべながら、淡々と言葉を返した。
「……随分と面白い話だな。」
エドリックは肩をすくめ、特に気にする様子もなく、視線を前へと移す。
開けた草原が広がる狩猟場。
彼は何気なく尋ねた。
「ところで、お前——彼女に会ったことがあるだろう?」
「昔、俺の代わりにエスティリアへ人質として赴いた時、彼女はまだ宮廷にいたはずだ。」
何の変哲もない雑談のように聞こえる。
だが、矢のように鋭い問いだった。
サイラスは、答えなかった。
ただ、無言のまま馬を降り、ゆっくりと獲物へ歩み寄る。
倒れた獣の体。
鮮やかな血が、草の上にゆっくりと広がっていた。
しゃがみ込み、無造作に手を伸ばす。
その指先が、獲物の毛並みを軽くなぞる。
同時に。
左耳の月長石のピアスに、無意識に触れた。
指が、静かにそれを摩る。
——宮殿の回廊の向こうに立つ、王女の姿。
——今、舞台の上で踊る、旅の踊り子。
「彼女は、どんな人間だった?」
エドリックの声には、感情の色がない。
サイラスは、ほんの一瞬だけ沈黙した。
だが、その間は刹那のものだった。
「……あまり覚えていない。」
淡々とした答え。
エドリックは細めた目で彼を見つめる。
その返答に満足していないのが、わずかな仕草から伝わってくる。
だが、追及することはしなかった。
「……まあ、何年も前のことだしな。」
ふっと小さく笑い、馬の手綱を引く。
獲物の亡骸に獲物が群がる。
獲物を貫いた矢は赤く染まり、獵犬の牙が肉を裂く音が響く。
梢の上では、驚いた鳥たちが羽ばたき、空へと逃れていく。
しばしの沈黙の後——。
エドリックはふと振り返る。
その唇に浮かぶのは、意味深な笑み。
「父上はお前のことを覚えているよ。」
「お前が思っている以上にな。」
サイラスは答えない。
ただ、馬上で微かに手を払うようにして、
衣服についた塵を払う。
そして、何事もなかったかのように馬を走らせた。
視線は、森の向こうへと向けられる。
——覚えている、だと?
それとも、単に俺が『駒』として役に立つ存在だったからか?