表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
第三章:皇権の盤上

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

77/194

(77) 隠された血

「サイラス、姿勢を正しなさい。」


 母の声は穏やかでありながらも、逆らいがたい威厳を帯びていた。

 静まり返った室内に、本のページをめくる音がやけに鮮明に響く。


 幼いサイラスは机の前に座り、背筋をぴんと伸ばして教本を見つめていた。

 本に記された文字は、整っていて美しく――それは母が手ずから書き記した手本だった。


「文字を書くときは、手首を浮かせてはなりません。」


 母は彼の隣に座り、優しくその手首に触れる。

 まるで羽のように柔らかく、しかし確かな力で導くように、一画一画を丁寧に書かせる。


「文字には心が現れます。乱れていれば、あなた自身も軽薄に見られるわ。」


 サイラスは眉をわずかにひそめながら、母の指導どおりに羽根ペンを動かした。


 母の教えは常にそうだった。厳しく、それでいて、どこか慈しみに満ちていた。


 彼女はサイラスに読み書きや礼儀作法を教えたが、帝国の政治については一切語ろうとしなかった。


 それでも彼には分かっていた。母が常に何かに怯えていたことを。

 夜になると、彼女は窓辺に立ち、胸に何かを抱いてじっと物思いに沈む――子供だった彼には理解できなかったその表情には、名状しがたい憂いが宿っていた。


「サイラス、人を簡単に信じてはなりません。」


 母はよくそう言った。声の奥には、どうしようもなく深い影が落ちていた。


 幼いサイラスには、その言葉の意味が分からなかった。

 ただ、漠然と感じていた――この屋敷は静かで美しいが、「本当の家」ではないのだと。


 彼の生活は単調で、そして窮屈だった。

 母と数人の使用人以外、誰とも会うことは許されず、屋敷の外へ出ることもなかった。


 当時の彼には理由など分からなかったが、今になって思い返せば、すべてはあまりにも明白だ。


 ――自分は、ただの貴族の子ではなかった。


 ――自分は、「隠された存在」だったのだ。


 ◆


 サイラスはふと我に返り、静かに墓碑を見つめた。


「……母さん、あなたは……当時、何を怖れていたんですか?」


 低く呟くように問いかける。しかし当然、返ってくる声はない。


 今の彼には、ようやく分かる。


 あの頃、母が抱いていた不安と憂いが、一体どこから来ていたのか。

 彼女は、自らの血筋を知っていた。そして、その血に何が宿っているかも。


 そして今、そのすべてを受け継いだサイラス自身が、それと向き合う時を迎えていた。

 彼は静かに目を閉じ、深く息を吸い込む。胸の奥で渦巻く想いを、呼吸とともに沈めるように。


「……まだ、そちらには行きたくありません。

 だから……もう少しだけ待っていてください。」


 そう言って、彼はゆっくりと立ち上がった。


 最後に一度だけ、簡素な墓碑を見つめ――そして背を向け、歩き出す。


 だが、彼の胸中にははっきりとした確信があった。

 ――帝都へ戻れば、もう逃げることはできない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ