(77) 隠された血
「サイラス、姿勢を正しなさい。」
母の声は穏やかでありながらも、逆らいがたい威厳を帯びていた。
静まり返った室内に、本のページをめくる音がやけに鮮明に響く。
幼いサイラスは机の前に座り、背筋をぴんと伸ばして教本を見つめていた。
本に記された文字は、整っていて美しく――それは母が手ずから書き記した手本だった。
「文字を書くときは、手首を浮かせてはなりません。」
母は彼の隣に座り、優しくその手首に触れる。
まるで羽のように柔らかく、しかし確かな力で導くように、一画一画を丁寧に書かせる。
「文字には心が現れます。乱れていれば、あなた自身も軽薄に見られるわ。」
サイラスは眉をわずかにひそめながら、母の指導どおりに羽根ペンを動かした。
母の教えは常にそうだった。厳しく、それでいて、どこか慈しみに満ちていた。
彼女はサイラスに読み書きや礼儀作法を教えたが、帝国の政治については一切語ろうとしなかった。
それでも彼には分かっていた。母が常に何かに怯えていたことを。
夜になると、彼女は窓辺に立ち、胸に何かを抱いてじっと物思いに沈む――子供だった彼には理解できなかったその表情には、名状しがたい憂いが宿っていた。
「サイラス、人を簡単に信じてはなりません。」
母はよくそう言った。声の奥には、どうしようもなく深い影が落ちていた。
幼いサイラスには、その言葉の意味が分からなかった。
ただ、漠然と感じていた――この屋敷は静かで美しいが、「本当の家」ではないのだと。
彼の生活は単調で、そして窮屈だった。
母と数人の使用人以外、誰とも会うことは許されず、屋敷の外へ出ることもなかった。
当時の彼には理由など分からなかったが、今になって思い返せば、すべてはあまりにも明白だ。
――自分は、ただの貴族の子ではなかった。
――自分は、「隠された存在」だったのだ。
◆
サイラスはふと我に返り、静かに墓碑を見つめた。
「……母さん、あなたは……当時、何を怖れていたんですか?」
低く呟くように問いかける。しかし当然、返ってくる声はない。
今の彼には、ようやく分かる。
あの頃、母が抱いていた不安と憂いが、一体どこから来ていたのか。
彼女は、自らの血筋を知っていた。そして、その血に何が宿っているかも。
そして今、そのすべてを受け継いだサイラス自身が、それと向き合う時を迎えていた。
彼は静かに目を閉じ、深く息を吸い込む。胸の奥で渦巻く想いを、呼吸とともに沈めるように。
「……まだ、そちらには行きたくありません。
だから……もう少しだけ待っていてください。」
そう言って、彼はゆっくりと立ち上がった。
最後に一度だけ、簡素な墓碑を見つめ――そして背を向け、歩き出す。
だが、彼の胸中にははっきりとした確信があった。
――帝都へ戻れば、もう逃げることはできない。




