(76) 三色スミレ
サイラスはあてもなく邸内を歩き回っていた。
記憶はかすかに残っているものの、所詮は幼少期のものであり、
ここがかつて自分の家だったという実感は薄れつつあった。
長い廊下を抜け、一枚の扉を押し開けると、そこには広々とした庭が広がっていた。
かつての記憶とほとんど変わらない風景に、彼の足が自然と止まる。
その静寂な庭の一隅、しゃがみ込んで花の手入れをしている老人の姿があった。
背を丸めたその老人は、古びた仕え人の服をまとい、丁寧にハサミで花の枝を剪定していた。
服こそ整っていたが、生地はわずかに色あせており、長年の時を感じさせる。
サイラスはその姿をじっと見つめる。
――この男、以前に会ったことがあっただろうか?
確信はなかった。
邸を離れたのはまだ幼い頃であり、多くの人々の顔は記憶の中で朧げになっていた。
しかし、それでもこの老人には、言葉にできない懐かしさがあった。
老人の腕に抱かれていたのは、摘み取ったばかりのスミレ――三色スミレだった。
紫、赤、白の花びらが風に揺れ、淡い香りが風に溶けるように淡く漂っている。
三色スミレ。
それは、――彼の母が好んでいた花だった。
眉がわずかに動いたその時、老人が顔を上げ、サイラスの存在に気づいた。
年輪の刻まれた深い瞳が、静かに彼を見つめる。
その眼差しには、驚きではなく、どこか懐かしさと穏やかさ、
そして言葉にしがたい想いが込められていた。
老人はゆっくりと立ち上がり、軽く腰を折って、柔らかく、しかし確かな声で言った。
「坊ちゃま。」
サイラスの胸に、一瞬鋭い衝撃が走る。
坊ちゃま――。
あまりにも久しぶりで、今となっては聞き慣れぬその呼び名。
しかし、この老人の口から出ると、不思議と違和感がなかった。
「……それは誰のために?」
視線を花束へと向けながら、サイラスは無表情で問うた。
老人は静かに微笑み、三色スミレの束を差し出した。
「お届けくださいませ。奥様は、ずっとお待ちです。」
何も言わずに花を受け取る。
柔らかい花びらに指が触れた瞬間、胸の奥に得体の知れぬ感情が波のように湧き上がった。
無言のまま、彼は邸の裏手へと足を向ける。
そこには、大きな樫の木が風に揺れて立っていた。
庭の奥にひっそりと佇むその木は、葉を落としながらも、堂々たる姿を保っている。
木の根元には、質素な石碑がひとつ。
陽光が石碑の苔を照らし、差し込む光の中で影が揺れていた。
サイラスは立ち止まり、しゃがみ込む。
石碑に刻まれた文字に、彼の視線が留まる。
「Requiescat in Pace, Hana」
――彼の、母だった。
静かに、三色スミレを碑前に捧げる。
スミレの香りが風に溶けるように漂い、その花は、まるで時を越えて語りかけるかのように、風に揺れていた。
彼は黙って、そっと花びらに触れた。
その指先に伝わる柔らかな感触とともに、遠い記憶の残響が、ふいに彼の胸に戻ってきた。




