(75) サイラスの旧邸
サイラスが目を覚ますと、視界に飛び込んできたのは、懐かしくも遠い記憶の風景だった。
木製の天井に刻まれた模様は変わらず、やや年季の入った家具は丁寧に磨かれ、配置も記憶とほぼ同じだった。木の香りがほのかに漂い、差し込む陽光と微風が部屋に温もりを添えている。
――ここは……
身を起こしながら、彼はゆっくりと周囲を見渡す。脳裏に過去の面影がよぎる。
この部屋は、かつて彼が少年時代に過ごしていた場所――帝都から離れた貴族の邸宅だった。
まったくの異郷というわけではない。何年も足を踏み入れていなかったが、
ここから帝都を見下ろせる高台の庭、そして馬車で半日かかる距離も、
彼の記憶にはまだ鮮明に残っていた。
左手が無意識に左耳に伸びる。
――だが、そこには何もなかった。
……月長石のピアスが、消えている。
その瞬間、指の動きが止まり、静かに手を下ろす。
――あの戦いの後、自分は意識を失った。
どれほどの時間が経ったのか。エレは? 彼女は無事なのか?
次々と浮かぶ問いに眉をひそめ、額を押さえながら深く息を吸い込む。
最後に見た光景が脳裏に焼き付いていた。
ラファエット、サルダンの武装部隊、異世界の兵器、暴走する力……
そして、あの氷のように澄んだ青い瞳。
エレの聖女の力……自分を救ってくれたのか?
彼女は今どこにいる?
その思考を振り払い、ベッドを降りる。
部屋の一角には、整然とたたまれた衣服が置かれていた。
誰かが前もって用意したものらしい。
服を着替えながらふと気づく。
――本来ならあるはずの傷が、まったく残っていない。
痛みすら感じない。
予想していたことではあるが、こうして確かめると、やはり眉間にしわが寄る。
……また、お節介を焼いたな。エレ。
視線は窓の外へ向かう。半開きの窓から、遠くの帝都が見える。
陽の光に照らされたその街は、どこか静かで、しかし深く、影のような重苦しさをまとっていた。
ここから帝都までは、馬車で半日。
もし自分がここに運ばれたのが戦いの直後であれば――
すでに三日は経っている。
その事実に、彼の心は重く沈んだ。
何より、自分の知らぬ間に状況が動いていることが、彼にとって最も好ましくない。
エレがその渦中にいるかもしれないというのに――。
サイラスは扉に手をかけ、静かに開けた。
廊下に足を踏み出すと、そこには静けさだけが広がっていた。
意外にも、誰一人とすれ違わない。
この邸宅は、無人ではない。
部屋の中も廊下も綺麗に整えられており、明らかに定期的に手入れされている。
それにも関わらず、この静けさは――不自然だった。
足音を忍ばせるように、記憶を頼りに歩き出す。
そして、広々とした石の露台へと辿り着く。
庭と、その向こうに広がる帝都の景色。
風が吹き抜ける中、サイラスはしばしの間、黙って帝都を見つめた。
「……懐かしいな。」小さくつぶやく。
口元にはかすかな笑みが浮かぶが、その瞳には深い色が宿っていた。
――誰が、自分をここへ戻したのか?
エドリックか? それとも…… エドムンド侯爵か?
サイラスは小さく鼻で笑い、何も語らずに邸宅の中心部へと歩を進める。
もし誰かの意図でここに運ばれたのだとしたら――会いに来る者がいるはずだ。