(74) 忘れられた秘密
月光が静かに王宮の庭の奥深くに降り注いでいた。
そこは子供たちが足を踏み入れることのない片隅、
木の影が揺れ、高い石壁に囲まれた小道に夜風が吹いている。
あの年、サイラスとエレはまだ幼い子供だったが、
すでに世界に対するそれぞれの理解を抱いていた。
エレはサイラスの手を引きながら、石畳の小道をすいすいと歩いていた。
その足取りは軽やかで、まるでこの場所にずっと親しんできたかのようだ。
「本当に大丈夫なのか?」
サイラスは眉をひそめ、小さな声で尋ねた。
「大丈夫だって。ここはわたしが見つけた秘密の場所なの。」
エレは小さく笑い、前方にある崩れた石の小屋を指差す。
「普段は誰も来ないんだから。」
サイラスは半信半疑のままついて行った。
小屋の石段はやや崩れ、ツタが柱に絡みついていた。
月明かりに照らされたその場所は、神秘的で静かな空間だった。
「いつも難しい顔してるでしょ。ここなら、何も考えずにぼーっとできるよ。」
エレは得意げに言いながら、石のベンチをぽんぽんと叩き、彼を促した。
サイラスは彼女を一瞥し、口元にうっすらと笑みを浮かべ、そしてついに腰を下ろす。
夜風が彼の短い髪を撫で、琥珀色の瞳に月光が映り込む。
久しぶりに、彼は一抹の安らぎを感じていた。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
突如として激しい痛みが彼の体を襲った。
サイラスの身体がびくりと震え、左目に焼けるような熱が走る。
何かが体の中で目覚めようとしているような感覚――
彼は額に手をあて、内心の恐怖を必死に抑えようとした。
「エドリック……?」
エレは彼の異変に気づき、慌てて近づいた。
「どうしたの?」
「……何でもない。」
彼はかろうじて言葉を絞り出すが、その声はひどく震えていた。
彼はこんな感覚を経験したことがなかった。
血が煮えたぎるような感覚、異なる世界の力が体内でうごめいていた。
彼は必死に唇を噛み、どうにかその狂気のような力を抑え込もうとした。
それでも、エレは怯えなかった。
彼女はただ静かに彼を見つめると、そっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。
「怖がらないで。」
彼女は優しく語りかけた。
その声は、彼がこれまで聞いたことのないような柔らかさを帯びていた。
彼女の指先は冷たく、彼の灼けるような肌との対比が際立っていた。
するとその瞬間――
エレの手のひらから、淡い氷のような青い光がふわりと現れた。
サイラスは目を見開き、信じられないという表情で彼女を見つめた。
「……エレ?」
エレも一瞬驚いた様子だったが、すぐに真剣な面持ちに変わり、そっと目を閉じた。
まるで彼女の魂の深い場所から何かに応えているかのように。
氷のような青い光はサイラスの身体を包み込み、
彼の体内に渦巻いていた狂気の力を、徐々に静めていく。
左目の灼熱も次第に和らぎ、まるで深い海に沈んでいくような静けさが訪れた。
しばらくして、光がゆっくりと消えた。
エレはそっと目を開け、彼に微笑みかけた。
「もう、少しは楽になった?」
彼は言葉を失ったまま彼女を見つめた。
鼓動は静かに戻っていたが、頭の中は混乱していた。
「……何をしたんだ?」
ようやく声を発すると、それはかすれた呟きだった。
エレは首をかしげながら答えた。
「うーん……よくわからないけど、多分これが『聖女』の力なんじゃないかな?」
彼は彼女を見つめ、様々な思いが脳裏を駆け巡ったが、
最後にはただ、小さく笑った。
「……なるほど。お前、怪物だったんだな。」
彼は冗談めかして言った。
エレは頬をふくらませて怒ったように彼を睨んだ。
「失礼ね! エドリックこそ怪物でしょ!」
夜は静かに流れていく。
月明かりは二人の上にやわらかく降り注ぎ、長く、優しい影を落とす。
この偶然の探検は、
やがて彼らにとって――
誰にも語られることのない、
そして時の彼方に埋もれていく「秘密」となった。
そして何年もの後、
あの蒼い光がふたたび彼女の手のひらに灯ったとき、彼女は思い出した。
――そう、あの夜からずっと、
彼女は彼を、救っていたのだ。




