(72) 狩人の覚醒
ラファエットは、自らの言葉に酔いしれていた。
その声音は低く、柔らかい——しかし、背筋を凍らせるような不快な甘さを孕んでいた。
「聖女と大司教が結びつけば、完璧な“神の後継”が誕生する……それこそが、サルダンの未来だ。」
「エレ嬢は、無価の宝石。私は彼女を大切に“可愛がる”つもりさ——彼女が使命を果たすその日まで。」
彼はちらりとエレに視線を向け、口元にぞっとするような笑みを浮かべた。
「最初は反抗するかもしれない。だが——時間が彼女に“従順”を教えてくれるさ。」
「おとなしく調教された頃には、自ら進んでこの運命を受け入れるだろう。」
その瞬間、エレの体内を凍えるような寒気が駆け抜けた。
拳を握りしめ、爪が掌に食い込み、怒りと恐怖が胸の奥で激しく渦巻く。
目の前の男を睨みつけるも、その視線の奥にある震えを隠しきれなかった。
——そして、彼女のすぐ前に立つサイラスの体が、ふっと揺れた。
左目を覆っていた手が、ゆっくりと降ろされていく。
金の光が琥珀の瞳を染めたその奥——
禍々しい紋章が、静かに浮かび上がっていた。
「…………」
彼はゆっくりと顔を上げる。
その目は氷のように冷たく、そこに人間の“温もり”は一切なかった。
殺意が、刃となって空気を削ぎ落とす。
その瞬間、風が止まった。
林の中の虫の声は消え、空気は凍りついたように重くなる。
光が歪み、影が潮のようにサイラスの周囲へと集まり始める。
周囲の温度が、一気に数度下がったかのような感覚。
黒い波が、静かに世界を飲み込もうとしていた。
護衛たちの手が無意識に震え始める。
銃口がぶれ、目を合わせた者同士の間に、深い“恐れ”が走る。
「……な、なんだ、これは……?」
一人の護衛が震える声でつぶやいた。
ラファエットの笑顔が凍りつく。
彼の眉間に、わずかな皺が寄る。
異変に気づいたのだ。
サイラスは、低く笑った。
その声は掠れ、しかし氷の刃のように鋭かった。
「……さっき言ってたな。」
「——誰が、獲物だって?」
返事を待たず、
闇が、爆ぜた——
影は猛獣のごとく飛び出し、護衛たちは反応する間もなく無形の力に吹き飛ばされ、大地に叩きつけられた。
呻き声が荒野に響き渡る。
「なにっ……?!」
ラファエットの胸中に、稲妻のような緊張が走る。
サイラスの姿が、闇の中を幽鬼のように迫る。
黄金の瞳は狩人のごとく輝き、冷酷な殺意を放っていた。
「——ッ!」
ラファエットは咄嗟に護衛の火器を奪い、引き金を引く。
「ガンッ!」
金属が裂ける音が響き、銃口は真っ二つに断たれ、破片が地面に散った。
「悪いな、異世界のモノは——異世界人にこそ、相応しいだろう?」
サイラスは冷たく嗤った。
その目には、もはや一片の温もりすらない。
ラファエットは冷や汗を流しながらも後退し、護衛に手振りで掩護を指示する。
だが、顔には焦りではなく、どこか楽しげな薄笑い。
「ふふ……なるほど、そういうことか。」
彼の視線がサイラスの左目に向かい、そこに浮かぶ紋章を見据える。
「帝国は異世界の神授の力を侮蔑し、拒絶してきたはずだ。」
「だが、その力は——その『神の痕跡』は、まさしく帝国の皇族の血の中で目覚めていたとはな?」
彼はくすくすと笑い出し、口調には愉悦すら混じる。
「面白い、実に皮肉だな。異世界の力を忌避してきた国が……最も“純粋な祝福の器”を育てていたとはね。」
「さて……サルダン教団としては、どう評価すべきか。」
その目がサイラスの左目をじっと見つめる。
青い瞳には歪んだ光が宿り、その言葉はさらに深い悪意を孕んでいた。
「君の方が……あのエレ嬢よりも“純粋”なのでは?」
「もしかすると——歴代の聖女すら超える“理想の器”かもしれない。」
その最後の言葉は、わざと囁くような低さで発せられ、ゾッとするほどの残酷な愉悦が込められていた。
「……愉しみが増えたよ。」
そう言って、ラファエットは微笑みながら護衛に囲まれ、馬車に乗り込んだ。
その瞬間——
サイラスの膝が、地面に崩れ落ちた。
両手で土を掴み、肩を震わせる。
額から流れる汗は止まらず、顔を伝って滴り落ちる。
体の奥で、何かが暴れている。
冷たく、だが灼けつくような熱さを伴い、全身を貫く。
四肢が引き裂かれ、神経が灼かれるような、得体の知れない感覚。
——これが、あの“力”の代償か。
彼の指先が地を深く掘り、関節は白く浮かび上がる。
だが、彼はまだ目を逸らさない。
その視線の先——ラファエットの背中を睨みつけていた。
「逃がすわけには……いかない……!」
左目に浮かぶ紋章はなおも微かに発光し、
残された力は暴れ回り、意識を侵食する。
けれど——構っている時間はない。
彼は歯を食いしばり、片膝をつきながら、必死に立ち上がろうとする。
あと少し——もう一歩……!
だが、力を振るうと同時に、無形の鎖が身体に絡みつく。
反動が、蛇のように神経を這い、筋肉を裂き、内から引き裂こうとする。
「ぐっ……っ!」
声にならない呻きが喉から漏れる。
それでも彼の目は、決して諦めていなかった。