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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
第一章:仮面の貴族と偽りの舞姫
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(7) 偽りの仮面

 その時だった。

 サイラスの足が、ふと止まる。


 突然のことに、エレは反応が遅れた。

 思わず、その背中にぶつかりそうになる。


「——っ」


 問いかけるよりも早く。

 次の瞬間、彼女の腕が強く引かれた。


 視界が一瞬、ぶれる。

 気づけば、冷たい石壁に背中を押しつけられていた。


 ——いや。

 強く押さえつけられたわけではない。

 だが、それでもこの状況は、抗いがたい威圧感を孕んでいた。


 エレの心臓が、一気に跳ね上がる。

 反射的に彼を押しのけようとした——。


 だが、その動きは次の瞬間、ぴたりと止まった。

 ——初めて、正面からこの男の目を見た。


 琥珀色の双眸。


 仄暗い燭光の中で、それは静かに揺らめいていた。

 まるで、燃え続ける炎のように。

 けれど、温かさはなかった。

 むしろ、そこにあるのは、底知れぬ冷たさ——。


「……っ」

 呼吸が、浅くなる。

 何かが、おかしい。


 サイラスは微かに顔を背ける。

 何事もなかったかのように、静かに佇んでいた。


「……お前は、一体ここで何をしている?」


 低く、抑えられた声音が夜に溶ける。

 それは、まるで獲物を追い詰めた獣の囁き。


「エスティリアの旅芸人……?」


 そして、ひと呼吸の間を置いて——。


「それとも……別の何かか?」


 エレの心が、一瞬、大きく震えた。

 だが、その動揺を決して表に出すことはなかった。

 彼女は、慎重に呼吸を整える。


 ——悟られてはいけない。

 ゆっくりと視線を上げる。

 無垢な少女を演じるように、わずかに首を傾げながら。


「……閣下の言葉の意味が、よく分かりませんわ。」

 声色はあくまで淡々と。


 それでいて、ほんの少しだけ、無垢さを滲ませる。

「私はただの旅の踊り子です。」


「しばらくブレストに滞在して旅費を稼ぎ、十分貯まったら、この街を離れるつもりです。」

 嘘はついていない。


 少なくとも——。

 "真実のすべて" を語ってはいないだけ。


 サイラスは、すぐには答えなかった。


 ただ、じっと彼女を見つめる。

 まるで獲物を吟味するように——。


 夜風が吹き抜ける。

 その瞬間。

 彼の側髪が、わずかに揺れる。


 ——その隙間から、エレは確かに見た。

 彼の左目に、微かに瞬く、不気味な金色の光を——。


「……っ」

 エレの心臓が、一瞬、凍りつく。


 ——見間違い?


 だが、もう一度よく見ようとした時、それはすでに消えていた。


 サイラスは、何事もなかったかのように顔を背ける。

 冷静な横顔。

 今の一瞬は、果たして現実だったのか——?


「……貴族としての義務だ。」

 彼は、淡々と告げた。


「この街で人買いどもが好き勝手に暴れれば、ブレストの名に傷がつく。」

 その言葉には、どこか無関心にも思える冷淡さが滲んでいた。


 エレは、彼の横顔をじっと見つめる。

 その胸には、答えのない疑問が、さらに積み重なっていくばかりだった——。


 ——本当に「ただの貴族の義務」なのか?


 彼の動きは鋭く、判断は一切の迷いを見せなかった。

 そして、冷静すぎるほどの沈着。


 これが、本当に普通の貴族の振る舞いだろうか?

 エレはすでに知っていた。.


 カイン・ブレスト——この街の領主、エドムンド侯爵の養子。

 出自不明の貴族の青年。


 彼はかつて帝国の軍事学院を首席で卒業したという。

 だが、軍に進むことなくブレストへ戻り——。


 戻った後の彼の行動は、誰の予想とも違っていた。

 家督を継ぐわけでもなく、政務を学ぶでもなく。


 ただひたすら、気ままな放蕩貴族を演じ続けた。


 ——社交の場にはほとんど姿を現さず。

 ——貴族の付き合いにも興味を示さず。

 ——遊び歩いているという噂ばかりが広まる。


 そんな彼に、周囲の人々は囁いた。


「エドムンド侯爵も馬鹿なことをした。」


「所詮はどこから来たのかも分からない男、真の貴族の血筋にはなれない。」


 彼は——。

 本当に、ただの無能な養子なのか?


 だが、そうであるならば。

 なぜ自ら黒牙を潰し、なぜ今、こうして自分を見つめている?


 ——疑っているのは彼だけじゃない。


 エレもまた、彼を疑っていた。

 この男の正体は、一体何なのか——。


「……何にせよ、助けていただき感謝します。」

 エレは静かに言い、微かに身を屈める。


 それは、貴族の礼儀に則った完璧な動作だった。

「今夜のご恩、決して忘れません。」


 サイラスはすぐには答えなかった。

 ただ、じっと彼女を見つめる。


 その瞳は夜の闇よりも深く、何を考えているのか読めない。

 やがて——。


 唇の端が、わずかに弧を描いた。

「そうか。」

 低く、どこか含みのある声。


「なら、しっかり覚えておくといい。」

 ——それはまるで、忠告のような響きだった。


 エレの胸に、一瞬、冷たいものが走る。

 感謝を述べただけのはずなのに。

 彼の言葉には、なぜか奇妙な圧があった。


 だが、サイラスは一歩後ろへ退き、

 あたかも先ほどまでの威圧など存在しなかったかのように、静かに距離を取る。

「……もう遅い。帰るといい。」

 気怠げな口調で言い捨てる。

「ブレストの夜は……独り歩きするには、あまりに危険だからな。」


 エレは微かに瞬き、

 何も言わずに目を伏せ、そっと頷いた。


 ——今夜の失敗で、彼に**"余計な情報"** を与えてしまった。

 本来なら、慎重に動き、時機を見極めてからエドリック王太子と接触するつもりだった。


 だが、予想外の出来事により、計画の見直しが必要になった。


 "カイン・ブレスト"。


 この男が、今後どこまで関わってくるのか——。


 試合ゲームは、まだ始まったばかりだった。

 エレはそっと息を整え、慎重に歩を進める。

 心を乱さぬよう、一歩、一歩。


 まるで、この街に初めて降り立った日のように——。


 路地の奥。

 そこに見覚えのある影が、不安げに周囲を伺っていた。


「エレ!」

 リタの小さな呼び声が夜に溶ける。


 エレの姿を認めた瞬間、彼女の表情が僅かに緩んだ。

 安堵の息を吐きながら、急ぎ足で駆け寄ってくる。

「大丈夫……?」


 リタの視線が、まっすぐにエレを捉える。

 その双眸には、安堵と緊張が入り混じっていた。


 ——そして、彼女が押し殺そうとしている恐怖も。


 今夜の出来事は、エレにとって嵐のような試練だった。

 だが、それはリタにとっても同じだったのだ。


 エレは、心の奥で渦巻く感情を押し込み、

 淡く微笑む。


「……戻ってから話そう。」

 リタは迷うことなく頷き、何も聞かずにエレの腕を支える。

 ふたりは、足早に冷たい路地を抜けていく。


 夜は、深い静寂を取り戻していた。

 まるで何事もなかったかのように。


 ——けれど、エレは知っている。

 全ては、まだ始まったばかりだ。

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