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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
炎と鉄、そして狩人の極限

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(67) 旅路の思索

 馬車はサルダン神聖国へ向けて、穏やかに走っていた。

  車内は豪奢に飾られ、ベルベットの座席は旅路の疲れを忘れさせるほど柔らかい。

  ——だが、そんな快適さも、エレの心を癒すには程遠かった。


 彼女はそっと手のひらにある月長石のピアスを握りしめ、

  指先でその冷たい晶石の表面を無意識に撫でていた。

  けれど、彼女の心の内は波打つように落ち着かない。


 ——あれは、あの「彼女」のものだったはず。

  ——あの人がずっと身に着けていたピアス、どうして今、私に?


 それがただの護符ではないと、彼女にはわかっていた。

  だが、カインはその意味を何も語らずに、ただ「持っていけ」と言っただけだった。


 ……一体、彼は何を考えているのだろう?


「姫様……」

  隣に座っていたリタが、少し戸惑いながらも声をかけてきた。

  その声には、微かな不安と躊躇が混じっていた。


「さっきからずっと、それを見つめていますね……それ、カイン様のものですよね?」


 エレは我に返り、ゆっくりと顔を上げてリタを見る。


「……うん。」

  曖昧な声で、彼女は頷いた。

 リタは首をかしげ、少し複雑な表情を浮かべる。


「でも……姫様……」

  彼女は声をひそめ、言うべきかどうか迷っているようだった。

  「それって……とても大切なものじゃありませんか? どうして、カイン様が姫様に?」


 エレの手が、わずかに強くピアスを握る。


「わからない。」

  そう、彼女は小さく呟いた。


 本当は「わからない」のではなく、「考えるのが怖い」だけだった。


 彼が、こんなにも大事にしていたもの。

  いつだって耳に身に着け、どんな場でも外さなかったそれを——

  彼女に託した意味を、深く追求するのが、怖かった。


「姫様……」

  リタはそっと尋ねる。

  「カイン様にとって、姫様は……ただの『異国の舞姫』だったのでしょうか?」


 その言葉に、エレは思わず息をのんだ。


 答えはすぐには返せなかった。

  彼女はそっと目を閉じる。

  まるで、その問い自体から逃げるかのように。


 ◆ 


 走行中の馬車は揺れながらも静寂に包まれていた。

  エレは窓際に寄りかかりながら、過ぎ去る景色をぼんやりと見つめていた。

  彼女の頭の中は、先ほどリタと交わした会話でいっぱいだった。


 彼女自身、自分の気持ちが分かっていないわけではない。ただ、まだそれを認めたくなかっただけ。


「……カイン……あなたは一体、何を考えていたの?」

 憐れみで、あのピアスをくれたの?

  それとも——


 エレの手が小さく震え、月長石のピアスを握りしめる指先に力が入る。


「姫様……」

  リタの声が彼女の思考を遮った。

  その瞳は心配に曇っていた。


「ラファエット大司教のこと、本当に信じていいんですか?」


 エレは唇を噛みしめる。


  ——信じられるのか?


 ……いや、本当は最初から一度も信じてなどいなかった。

  サルダン神聖国との協力を選んだのは、ただそれしか選択肢がなかったから。

  母の行方を知るため、エスティリアへ戻るため——これは賭けだった。覚悟の上だ。


 しかしその時、不意に馬車が緩やかに停止した。


 エレは驚きつつも、休憩地点かと思って外を見ようとした。

  だが馬車の扉は、外から開けられた。


 白金の長髪がふわりと揺れ、男が悠然と馬車へ乗り込んでくる。


「大司教……?」

  エレは思わず言葉を失った。


 ——ラファエット・エーベルラン。


  ラファエットの白金の髪が燭光に映える、蒼い瞳は微笑みを湛えていたが、その奥に温もりは一切なかった。


「エレノア様、少し話があります。」

  ラファエットは穏やかに言った。そしてリタに視線を向ける。

  「付き人の方は、別の馬車へ移ってください。適切に対応させます。」


「ちょ、ちょっと待ってください! 私は姫様のそばに……!」


「命令です。」

  その口調は依然として優しげだったが、有無を言わせぬ威圧感を伴っていた。


 リタは一瞬硬直し、唇を噛みながらも従い、馬車を降りていった。

  扉が閉まり、二人きりの空間が静かに完成する。


 エレは不安を感じつつも、表情には出さずに冷静を装った。

「リタを下げさせたということは……何か特別な話があるのでしょうか?」


「もちろんです。」

  ラファエットはにこやかに笑いながら、隣に腰を下ろす。

  その距離は、明らかに必要以上に近かった。


 エレは反射的に身を引いたが、狭い馬車の中では限界があった。


「エレ様、ご自身の立場を本当に理解していますか?」

  その声は静かで柔らかく、だがどこか冷ややかだった。


「今、あなたはサルダン神聖国にとって……“貴重な存在”なのです。」


 そして——

  彼の指が、彼女の腰元にそっと触れた。


 エレは全身を強張らせた。

  彼の指先は滑らかに腰を撫で、じわりと圧をかけてくる。


「何をしているの?」

  彼女の声は冷たく、警戒心に満ちていた。


 ラファエットはその問いを無視するかのように、淡々と語る。

  「エスティリアの聖女の血。私たちがそれを保護し、未来に繋げるためには——あなたが私のものになるのが当然でしょう。」


 エレの瞳が鋭く見開かれた。


「……冗談でしょ?」


「冗談ではありません。」

  彼は静かに言った。次の瞬間、もう片方の手で彼女の体を引き寄せる。


「“支援”とは無償ではありませんよ、エレ様。」

  「聖女の血を後世に残すこと、それがあなたの使命です。」


「やめて!」

  エレは即座に振り払い、立ち上がろうとする。

  だが車内は狭く、思うように距離を取れない。


 それでも、彼女は怯まず睨み返した。


 ラファエットは微笑みを崩さず言う。

  「私は急ぎません。あなたの血は、ただの女ではなく、“選ばれし者”のものですから。」


「……その血を、継がせるために?」

 エレの声は震えていた。


「ええ。私との子を。」

  ラファエットは優しげに頷いた。


 エレの全身が一気に冷え込む。

 ——それが、彼の本当の目的。


「……それが“支援”の条件なのね。」


「その通りです。」

 彼は何の迷いもなくそう答えた。

「あなたの体こそが、最大の資産。あなた自身も理解しているでしょう?」


 その言葉は、ナイフのようにエレの心を切り裂いた。


 ——あの夜、カインが言ったあの言葉と重なった。


(その身体で俺に返すのはどうだ?)


  今、別の男が同じようなことを言っている。


 エレの心臓が痛みで激しく締め付けられた。

  でもそれは、この男によるものではなく——カインによるものだった。


 彼の言葉は、予言だったのか、それとも警告だったのか。


 エレは息を吸い、冷静さを取り戻す。

 そして——


「……わかったわ。」


「……ほう?」

  ラファエットは目を細める。「意外と早かったですね、覚悟が。」


 だが彼女は薄く微笑み——


「いいえ、受け入れるなんて言っていない。」

 その言葉と同時に——


  「ビシッ!」


 彼女の平手が、彼の頬を打ち抜いた。

 ラファエットの長髪が乱れ、彼の頬には赤い痕が残る。


 エレの手はまだ空中にあり、目は冷たく光っていた。


「よく聞きなさい、ラファエット・エーベルラン。」

  「私は駒でもないし、血を残す道具でもない。」


 ラファエットは頬をさすりながら、何故か楽しげに笑った。

「……女に打たれたのは初めてですよ、大司教としては。」


 しかし——


「バシン!」


 今度はラファエットの手が動いた。


 エレの頬が真っ赤に染まり、じわじわと痛みが広がっていく。

 彼女は無言で頬を押さえた。だがその目には怒りが宿っていた。


「私が手を出さないと思ったのですか?」

  ラファエットの声は低く冷たい。


「さっきのは“優しい方”ですよ。」

「“神の力”の研究に参加した志願者たち——彼らは、もっと酷い目に遭いましたからね。」


 エレの胸がどくんと高鳴る。


 ——“研究”?


 この男は、異世界の力を使って、何をしようとしているの……?

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