(66) 盤面の奈落
エドリックは姿勢を変え、腕を組んだまま、気だるげな口調でありながらも、どこか脅しめいた響きを帯びて言った。
「本当に、サルダン神聖国の『支援』が彼女に背負える代償だと思っているのか?」
「……」
サイラスはすぐには答えず、ただ黙って足元を見つめていた。
しばらくして、彼はゆっくりと顔を上げる。
その眉間には、抑え込まれた何かが確かに宿っていた。
「彼女が選んだ道だ。」
彼の声は冷たく、まるで自分に言い聞かせるようだった。
「だったら、結果も自分で背負うべきだろう。」
エドリックは首を傾げ、面白そうに目を細める。
「そうか?」
その口ぶりには、信じきれない皮肉が滲んでいた。
「本当に割り切れるなら、いいけどな。」
彼は片手で軽くサイラスの肩を叩き、低く囁く。
「でも俺は、お前みたいな奴が、そう簡単に割り切れるとは思えない。」
サイラスの目が鋭くなり、冷たい光を宿した。
かつての気だるげな雰囲気は影を潜め、代わりに鋭い問いが静かに返された。
「今さらそんなことを言うのは……どういうつもりだ?」
その声は低く、だが刃のように鋭い。
「お前が言ってたじゃないか。今この件に手を出せば、帝国との争端を招くって。」
エドリックは眉を上げ、余裕のある笑みを浮かべた。
「ああ、言ったさ。」
と、彼は楽しげに応じた。
「だから、別にお前に『介入しろ』とは言っていない。ただ——」
彼は一歩近づき、声を潜めて言った。
「自分で“何もしない”と決めたってことを、忘れないようにな。」
サイラスの表情に変化はなかったが、彼の目の奥には深く沈んだ感情が渦巻いていた。
しばしの沈黙ののち、彼は低く笑った。
「忠告、どうも。」
「殿下」という言葉を、わざと皮肉めいて強調しながら。
そしてくるりと背を向けた。
「ノイッシュ、アレック。馬を用意しろ。出発する。」
命じられたノイッシュとアレックは顔を見合わせた。
彼らにはわかった——サイラスの機嫌は最悪だ。
そして、彼が一度決めたことに口を挟んでも無駄だということも。
エドリックはその背中を静かに見送っていた。
「かつての王太子」の背を。
立ち去ろうとしたサイラスが、ふと足を止めた。
振り返ることなく、低く呟いた。
「お前がその“帝国との争端”を収める覚悟をしとけ。」
それはただの皮肉に聞こえたかもしれない。
だがそこには、確かな警告の響きがあった。
そしてそのまま、彼は歩き出す。
マントが風を切り、背中は遠ざかっていく。
——だが、心の中では何一つ、置き去りになどしていなかった。
ノイッシュとアレックは、サイラスがブレストに帰るつもりだと思っていた。
だが今の一言で、二人とも固まった。
彼は、エレを追うつもりだ。
サルダンの使節団を。
ノイッシュが恐る恐る口を開いた。
「カイン様……もしかして……?」
それを聞いたアレックが、すかさず彼の肩を叩き、黙れと言わんばかりに目で制した。
見ると、サイラスは何も答えず、ただ俯いていた。
だが、左耳へと無意識に手を伸ばしかけ——
そして、その手を静かに下ろした。
「……すぐに出発する。」
彼の言葉は冷たく、迷いはなかった。
ノイッシュもアレックも、心の中で同時に叫んだ。
(これは……ただの護衛任務じゃない!)
だが、いくらそう思っても、サイラスを止めることはできなかった。
彼を動かしているのは、もはや理屈ではなく——
感情、執念、そして、譲れぬ想いだった。
エドリックはその背中を見つめ続ける。
その赤い瞳には、言葉にできぬ感情が浮かんでいた。
この対話の結末は、すでに彼の問いかけの時点で決まっていた。
サイラスには、最後の「逃げ道」を示したつもりだった。
だが彼は——
それを選ばなかった。
——やっぱり、お前には、無理だったか。サイラス。
エドリックは静かに息を吐き、手袋を引き締める。
その背中を、もう見送ることはない。
これは始めるべきではなかった「盤面」。
けれど彼は、すでにその盤の上に立っている。
そして——もう引き返せない。
「……まあ、そうだな。」
彼はぽつりと呟いた。
その声には、未練とも冷笑ともつかない響きがあった。
「お前たちには、あんな過去があったんだから……」
「殿下?」と、傍らのカミラが小さく声をかける。
エドリックは何も答えず、ただ遠くの青空を見上げた。
その口元には、誰にも気づかれないほど微かな笑みが浮かぶ。
——サルダンの聖職者たちはまだ知らない。
自分たちがどんな‘災いの種’を抱え込んだのか。
エドリックには見えていた。
サイラスの行動が、この盤面をどう揺るがすのか。
彼はもう「選ばせた」。
だが、その男は——
自ら奈落に足を踏み入れたのだ。
エドリックは、どこか哀れむように、あるいは嘲るように、静かに呟いた。
——「この一手、お前はどう打つつもりだ?」




