(65) 朝霧の決断
朝霧がうっすらと街を包むロイゼルの早朝、
大邸宅の前では、サルダン神聖国へ向かうラファエット・エーベルランの使節団が出発の準備を整えていた。
エレとリタは、使節団の馬車の中にいた。
その内装は豪華で広々としており、これまでのどの馬車とも比べものにならないほど贅沢だった。
柔らかなベルベットの座席、精緻な彫刻装飾——すべてが、貴族の権威と品格を物語っている。
リタはそわそわと周囲を見回し、小声で呟いた。
「今までの馬車より、ずっと豪華ですね……」
エレは返事をせず、ただ手の中のピアスをそっと撫でていた。
淡い光を放つ月長石は、どこか冷たく、誰かの温もりを宿しているようだった。
馬車の外では、王太子エドリックが自ら見送りに現れた。
その言葉は丁寧でありながら、どこかよそよそしい。
「ご無事をお祈りしています。」
ラファエットは静かに頭を下げ、変わらぬ微笑を浮かべながら馬車へと乗り込んだ。
エレもまた、一度だけ周囲を見渡した——だが、そこに彼の姿はなかった。
カインは……来なかった。
胸の奥に、小さな穴が空いたような感覚。
視線は無意識に邸宅の門を探していたが、見つけることはなかった。
馬車がゆっくりとロイゼルを後にする。
エレは一度も振り返らず、ただ手の中のピアスを強く握りしめた。
それだけが、彼と並んで歩んだ証のような気がした。
◆
午後、エドリックは庭園の小亭に足を運んだ。
そこには、帰路の準備を整えたサイラスの姿があった。
「せっかくだし、帝都まで足を延ばしてみないか?」
その問いは軽く投げかけられたものだったが、どこか試すような響きもあった。
サイラスはゆっくりと振り返り、琥珀色の瞳に一片の揺れもなかった。
「もう護衛すべき相手もいない。帝都に行く意味はないさ。」
「ブレスト侯爵の養子殿は、また暇を持て余すわけだ?」
エドリックは苦笑する。
「エレノアとの再会も、ただの夢だったと?」
「最初から、俺のものじゃなかった。」
サイラスの声は静かで、視線は遠くの空を見つめていた。
「未練なんて、持つだけ無駄だ。」
エドリックはしばらく彼を見つめ、ふっとため息をついた。
「かつては、選ぶことができなかった。けど今は——お前ら自身が選んだ道だ。」
その言葉に、サイラスの指先がわずかに動いた。
——どこかで、誰かにも同じようなことを言われた記憶があった。
「……」
サイラスは何も答えず、黙って地面を見つめたまま。
エドリックはしばらく沈黙したのち、表情を変えずに言葉を続けた。
「でも、分かってるだろ? ラファエットの狙いは“エレを助ける”ことだけじゃない。」
その言葉に、サイラスの視線がピクリと動く。
エドリックの赤い瞳が、窓から差し込む陽光を受け、冷たく光る。
彼は一歩近づき、声を潜めた。
「ラファエットは帰国したら、すぐにエレと結婚するつもりだろうな。
“聖女の力”を継ぐ子供を作るために。」
サイラスの肩がわずかに硬直した。
エドリックはそれを見逃さず、口元に薄く笑みを浮かべる。
「サルダン教団は“神の祝福”に異常なほど執着してる。
異世界からの力に関する研究だって、ずっと続けてるし——
……中には“召喚実験”を秘密裏に行っているって噂もある。」
サイラスの手が無意識に動き、左耳へと伸びた。
しかし——そこには、もう何もなかった。
あの月長石のピアスは、
もう彼のもとにはない。




