(64) 夜の別れ
夜が更け、ロイゼルの屋敷は静寂に包まれていた。
回廊の蝋燭が揺れ、淡い光と影が庭の石畳に映る。
エレは中庭に佇み、空を見上げていた。
その胸の奥には、複雑な思いが渦巻いていた。
——明日の朝、ここを発つ。
もしかしたら、二度と戻れないかもしれない。
足音が静かに響いた。
「出発か?」
背後から聞こえた声は、いつもの気怠げな口調。
振り返ると、そこにはサイラスが立っていた。
彼は変わらず無表情で、何も感じていないかのように見えた。
だがエレは気づいていた。
その無関心の仮面の下に、何か隠しているものがあることを。
「……ええ。明日の朝に。」
そう答えると、サイラスは何も言わず、ただ彼女を見つめた。
その瞳は、夜空よりも深くて暗い。
ふと、彼は左耳のピアスを外し、それを彼女に差し出した。
「持っていけ。」
エレは目を見開いた。
「……これは?」
「ただの飾りじゃない。」
サイラスの声は静かだった。
けれど、その声音には、彼女が聞いたことのない優しさが滲んでいた。
「中には聖女の力が込められてる。……少なくとも、危ない時にはお前を守ってくれるはずだ。」
彼女はそのピアスを見つめた。
淡く青い光を宿した月長石は、まるで彼の記憶そのもののように、澄んで美しかった。
やがて、彼女はそっとそれを受け取った。
掌の中でそっとなぞりながら、問いかける。
「……これは、あの“女性”からの贈り物じゃないの?」
サイラスの表情がわずかに揺らぎ、口元に曖昧な笑みを浮かべた。
「今の俺には、もう必要ない。」
「……どういう意味?」
彼の言葉に、エレは思わず眉をひそめた。
「文字通りの意味だ。」
彼はそう言って背を向け、夜空を見上げる。
「お前が向かう先には、帝国の保護なんてない。……想像しているより、ずっと危険かもしれない。
そのピアスの方が、体を“差し出す”よりはマシだろう。」
エレの胸がぎゅっと痛んだ。
拳を握りしめたまま、彼を見つめる。
「……やっぱり、あの時のことを気にしてるのね?」
「いや。」
風に乗って、彼の声がかすかに響く。
「ただ……俺にできることが、まだ残っている気がしただけだ。」
彼女は黙って彼を見つめた。
その横顔には、どこか苦しげな影が差していた。
まるで、本当は言いたくないことを、無理に口にしているかのように。
「じゃあ……あなたは?」
彼女はそっと尋ねる。
「このピアスを手放して、あなたは大丈夫なの?」
サイラスは一瞬、言葉を失い、そして小さく笑った。
「俺がそれなしじゃダメな人間みたいに言うなよ。」
「……でも、いつもつけてたじゃない。」
「今は、お前の方が必要としてる。……ただ、それだけだ。」
彼女はたくさん聞きたいことがあった。
なぜこのピアスに聖女の力が?
本当の由来は?
なぜ、そんなに大切なものを自分に託してくれるのか。
けれど——その問いを口にすることはなかった。
サイラスはもう、夜空を見上げていた。
低く、淡い声で、最後の言葉を紡ぐ。
「それが……お前を守ってくれればいい。」
少し間を置いて、こう続けた。
「……もしまた会えたら、その時に返してくれ。」
エレの指がピアスを握りしめる。
「……必ず返すわ。」
彼は頷いた。
言葉はそれ以上、交わされなかった。
ただ、夜風が静かに吹き抜け、二人の間に残された想いをそっと運んでいった。
これは——永遠ではないかもしれないが、
確かに、ひとつの別れだった。




