(62) 交渉の焦点
エレが返答するよりも早く、客間の扉が再び開いた。
彼女は反射的に振り返り、そこに現れた人物を見て目を見開く。
エドリックが静かに部屋へと足を踏み入れ、その後ろには——
予想もしていなかった人物、カインが続いていた。
エレの心が一瞬ざわめく。
——カイン? どうして彼がここに?
ラファエットは落ち着いた笑みを浮かべながら、エドリックへと優雅に一礼した。
「王太子殿下、このような場で対話の機会をいただけるとは、光栄の極みです。」
エドリックは変わらぬ無表情で軽く手を振る。
「遠路はるばるの来訪だ、無下にはできん。」
しかし、ラファエットの視線はすぐにエレへと移り——
いや、正確には、彼の目はサイラスを捉えていた。
「エレ様、差し支えなければ、こちらにおられる“カイン殿”にもご同席いただければと思います。」
ラファエットの笑顔は柔らかいが、その背後にある意図は明らかだった。
——最初から、すべてを把握していたのだ。
サルダン神聖国の情報力の深さを、エレはここで改めて実感する。
あるいは、ラファエット自身が、すでにこの局面を計画していたのかもしれない。
一方、後ろに立つサイラスは何も言わず、怠そうに立っていた。
だが、エレの目には、彼の指が無意識に腕を叩いているのが映る。
それは、彼が苛立ちを覚えているときに出る癖だった。
——苛立ち? それとも、もっと別の……?
そのとき、エドリックの背後から、一人の従者が静かに前へ出て言う。
「カイン殿、礼節をお守りください。」
その一言は、サイラスの“砕けすぎた態度”を公然と指摘するものだった。
サイラスは眉をひそめ、苦笑いを浮かべる。
「……どうやら、俺はすっかり仕組まれてたみたいだな。」
軽く言い放ちながらも、その声音の奥にあったのは、抑えきれない違和感。
エレは目を伏せる。
——この場における主導権は、もはや彼女の手にはない。
交談は形式的な挨拶から始まった。エドリックとラファエットは誓約祭の話題や、帝国とサルダン神聖国の長年の友好関係について談笑を交わす。
しかし数分後、ラファエットの言葉が核心へと切り込む。
「——とはいえ、今のエレ様のご身分は、少々中途半端でおありですね。」
静かに告げられた言葉に、空気がわずかに張り詰める。
エレは背筋を伸ばし、冷静に問い返す。
「……どういう意味でしょうか?」
ラファエットは椅子の縁に指を軽く叩きながら、あえて間を取り、語り始めた。
「蒼月の聖女の娘であり、エスティリア王族の最後の血脈……にもかかわらず、今や帝国でただの亡命者。実に……惜しい存在です。」
この「惜しい」という言葉に込められた意味を、エレはすぐに察する。
——これは同情ではない。明確な「価値評価」だ。
「そこで、一つご提案を。」
ラファエットは静かに告げた。
「エレ様、どうか我がサルダン神聖国にお戻りください。」
その瞬間、エレの瞳が揺れる。
「我が国では神より賜りし力を尊び、異世界の血統を何よりも重んじております。蒼月の聖女の直系たるあなたは、その加護を継ぐ存在。我々は、あなたに相応しい庇護を提供できると信じております。」
一見すれば、誠実な申し出。
しかしエレにはわかっていた。
——これは、“庇護”などという穏やかなものではない。
ラファエットの言葉は、もし帝国が守らないのならば、サルダンが“代わって保護”するという、宗教的・政治的「介入」の宣言だった。
エドリックは茶を置き、ようやく口を開く。
「つまり、サルダン神聖国からの“正式な申し出”と受け取っていいのかな?」
その問いに、ラファエットは微笑を崩さず答える。
「もちろん。帝国との協議の上で、最良の判断を下すつもりです。」
——帝国が動かなければ、我々が動く。
そう言外に伝えているのだ。
そして次の瞬間、ラファエットの視線がサイラスに向けられる。
「カイン殿は、どうお考えですか?」
場にいたすべての視線が、サイラスに集中した。
サイラスは静かに目を細め、どこか諦めたように言う。
「俺ですか? ただの辺境貴族の養子ですし、爵位もない。
こんな大事な場に口を挟むような立場じゃありませんよ。」
「大司教様は、ちょっと俺を買いかぶりすぎじゃないですか?」
自嘲めいたその言葉に、エレは一瞬戸惑う。
——これは、明らかに“立場を外す”意図的な発言。
だが、ラファエットは微笑みを崩さず、あくまで平穏に答える。
「我らは神の導きに従う者。俗世の身分や称号には、さほど重きを置きません。」
その言葉は、教団の“政治無視”を強調するもの。だが、それは同時に、彼らが信仰の名の下にいかなる力にも関与するという意味でもある。
サイラスはそれでも穏やかに笑いながら、静かに言った。
「でしたら——本人に聞いた方が早いでしょう?」
「エレノア姬殿下の意志が、何よりも重要なのでは?」
その一言で、すべての視線が再びエレへと集まった。
エレの胸が高鳴る。
——ここからが、本当の決断。
彼女は、何を選ぶのか?




