(61) 悪役の嘲笑
エレが客間を出た直後、思考を整理する間もなく、前方から軽やかな足音が響いた。顔を上げると、華やかな長衣の裾が優雅に揺れ、カミラがにこやかに近づいてきた。
「まあ、これはこれは。エスティリアのエレノア姬殿下ではありませんか?」
カミラは微笑みながら、軽い口調で言った。
「どうしたの? あまり嬉しそうには見えませんけど?」
エレは心の中で緊張を覚えつつも、冷静な表情を崩さずに答える。
「カミラ嬢。」
「聞きましたわよ、」
カミラの口元がわずかに吊り上がる。
「エレノア姬殿下は“自分の身”を取引材料にして、帝国の支援を得ようとしたとか?」
エレの表情がわずかに強張り、目を細めて冷たい声を返す。
「……何のことかしら?」
「とぼけても無駄よ。」
カミラは指先で髪を軽く払いながら言う。
「この屋敷中、誰もがこそこそと噂してることよ。」
彼女は一歩近づき、声に皮肉をにじませた。
「でも残念ね、体を売っても成果ゼロ。無駄足だったんじゃないかしら?」
エレの指が無意識に拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込む。怒りを抑え、静かに言葉を選ぶ。
——カミラ。表では優雅な淑女を装っているくせに、実際は……
「……これがマミーの言っていた——“悪役令嬢”ってやつかしら?」
エレの脳裏にそんな言葉がよぎった。
「……今、何か失礼なことを考えてたでしょう?」
カミラは目を細め、エレの表情の変化を見逃さなかった。
エレは深く息を吸い、口調を落ち着けて言った。
「私は王太子殿下と正式な交渉のために来たのです。無駄な噂話に付き合うつもりはありません。」
「正式な交渉?」
カミラは穏やかな笑みを浮かべたまま、まるで妹に説教するかのように言う。
「姬、本気で“自分に選択肢がある”とでも思っているの?」
エレの瞳がわずかに揺れた。
カミラは顎に指を添えて冷たい微笑を浮かべる。
「王太子妃も、王妃の座も、あなたの手には入らない。」
「どういう意味?」
エレは声を低くして尋ねる。
「簡単なことよ。あなたは国を失った亡国の姫。政治的価値もまだ確立していない。今のあなたは“帝国を利用したいだけの小物”に過ぎないの。」
カミラの目が鋭く光る。
「だから、ごめんなさいね。私はあなたのような存在を見過ごすつもりはないの。」
エレは冷静な表情を保ちながら、目の奥に氷のような光を宿した。
——彼女は自分を“未来の皇后”だと信じて疑っていない。
「……その言葉、まだ早すぎるんじゃないかしら?」
エレは顎を少し上げ、怯まぬ声で応じた。
「では、楽しみにしていましょう。エレノア姬殿下。」
カミラは冷笑を残し、くるりと背を向けて去っていった。長衣の裾が静かに揺れ、仄かな香りを残して。
エレはその場にしばらく立ち尽くし、深呼吸して心を落ち着けた。
——交渉は、まだ終わっていない。
◆ ◆ ◆
エレは案内役に従って歩きながら、どこか足取りが重くなっていた。
自分は追い払われたと思っていたが、案内されたのは外ではなく、別の、より格式高い客間。
扉が開かれた瞬間、眩い光が差し込む荘厳な空間が広がっていた。白と金を基調とした装飾、神聖さを感じさせる空気。そして、その空間の中心に座っていたのは——
サルダン神聖国の大司教、ラファエット・エーベルラン。
彼の存在はまるでこの部屋そのものだった。余計な装飾は一切なく、それでいて圧倒的な威厳を漂わせる。雪のように白く滑らかな髪、透き通るように白い肌、彫刻のように整った顔立ち。
そして、感情を見せぬ氷のような蒼い瞳が、まっすぐにエレを見つめていた。
エレは昨夜の宴を思い出す——この男はいた。
だが、紹介されることなく、ただ遠巻きに周囲を観察していた。
今、こうして二人きりで対面するということは──エドリックの差し金だ。
エレは慎重に礼を取る。
ラファエットはすぐには応じず、静かに彼女を見つめていた。
その目は、まるで稀少な聖遺物でも見るかのようだった。そして、口元に静かな笑みを浮かべる。
「エスティリアの王女……いや、“蒼月の聖女の娘”と呼ぶべきでしょうか?」
その穏やかで柔らかな声は、まるで古き福音の詠唱のように響いた。
エレの背筋が緊張で固まる。
その一言は、彼女の正体を暴いただけでなく、「聖女の血」に対する興味をあらわにした言葉でもあった。
サルダン神聖国の教団が、長年エスティリア王族による“聖女召喚の独占”に反発していたことは、彼女も知っている。
彼らは神の祝福を“信仰者”に返すべきだと唱え、今回の政変にも関わっているという噂さえある。
「私のことを、よくご存知のようですね。」
エレは唇を引き締め、冷静に答える。
ラファエットは静かに書物を閉じ、ほほ笑んだ。
「ええ。あなたの存在は……我々にとって、計り知れない価値があります。」
エレの胸が強く締めつけられた。
——この対話こそが、本当の始まり。
そして、自分は今、より深い“盤面”に踏み込んだのだ。




