(60) 交渉の序章
エレは広々とした客間へと足を踏み入れた。歩みは静かに安定しているが、その指先にはわずかに緊張がこもっていた。
不安を内に隠しながら、彼女はこの場に立つ覚悟を決めていた。
エドリックは主座に腰を下ろし、朝の光を浴びた金髪が微かに輝いている。
その深紅の瞳は冷静に彼女を見据え、表情からはこの会談に対する期待など微塵も感じられなかった。
「エレノア姬、」
彼は淡々とした口調で言う。
「もう自分の“切り札”を思いついたのか?」
エレは深く息を吸い込み、まっすぐに彼を見つめ返す。
「昨夜のあなたの言葉は正しかった。今の私は、帝国を動かすには価値が足りない。
──でも今は、本当の切り札を持ってきました。」
エドリックは返答せず、ただ静かに彼女の続きを待った。
「私は蒼月の聖女の娘です。その血を継ぎ、力も受け継いでいる。」
一言が落ちると、客間は一瞬、静寂に包まれた。
エドリックの指先がテーブルを軽く叩く。視線は変わらず、彼女の全てを測るように注がれていた。
「──それで?」
エレは彼が求めているのが“血統”ではなく“実利”であることを理解していた。
だからこそ、迷わず言葉を重ねる。
「かつて帝国は異世界の者を召喚し、“祝福”という力を授けました。
聖女の血筋とは、純粋な異世界の力に他なりません。」
目を逸らさず、エレははっきりと告げる。
「私と結ばれれば、帝国は再びその力を手にすることができる──これは神の加護なのです。」
空気がわずかに震えたように感じられた。
エドリックはすぐには答えず、わずかに首を傾ける。紅い瞳に、興味とも皮肉とも取れる光が宿る。
「つまり、君は……自分自身を“条件”として、私に求婚するというのか?」
エレは怯まず、しっかりと頷いた。
「荒唐無稽に聞こえるのは承知しています。でも、帝国には異世界の者との婚姻の前例があります。
これはただの結婚ではなく、利益交換です。聖女の血を引く後継がいれば、帝国は王権と異世界の力を永続的に手に入れられる。誰もが無視できない優位性です。」
エドリックはすぐには返答せず、目を細めて彼女をじっと見つめた。
「自分が何を言っているのか、分かっているのか?」
「理解しています。」
エレの視線は揺るがず、言葉も強かった。
「これが、私の生き残る道です。」
エドリックは黙り込んだ。その目に、一瞬だけ読み取りづらい感情がよぎる。
指は変わらず、テーブルを静かに叩き続けていた。
「──面白い。」
しばらくの沈黙の後、彼は低く笑った。
その笑みがエレの心を少しだけざわつかせる。
「エレノア姬、」
エドリックは穏やかな声で続けるが、その裏には鋭さがあった。
「君の提示した条件、確かに興味深い。」
「でも、一つだけ聞きたい。」
彼は言葉を区切り、紅い瞳を細める。
「これは君自身の決断か? それとも、カインに教えられた台詞か?」
その名を聞いた瞬間、エレの眉がわずかに動いた。
──これは、私の決断か? それとも彼の教唆か?
昨夜の記憶が、否応なく蘇る。
──『その身体で俺に返すのはどうだ?』
──『エドリックの元へ行って、そっちで身体を売るか?』
彼の冷酷な言葉と、そして……言葉以上に深く心を揺さぶった、あの琥珀の瞳。
あれは怒りだったのか? それとも……
エレは拳を握りしめた。
「──違います。これは私の選択です。」
その声は震えず、むしろ断固たる意思を宿していた。
エドリックは口元に笑みを浮かべたが、その瞳には微かな陰が差していた。
──サイラスが言っていた“切り札”とは、これのことか。
彼は理解していた。エレの出した答えは、確かに“切り札”たり得る──
だが、それを切る“場所”を間違えた。
「エレノア姬、」
彼は緩やかに口を開いた。
「君は今の帝国の立場を理解しているか?」
エレは答えられなかった。
「今の帝国に、聖女も、異世界の力も必要ない。」
エドリックは淡々と言った。
「かつては“神の加護”と呼ばれた力も、今や不確実な存在だ。帝国はすでに、それなしで繁栄できる強さを持っている。」
エレの指先がわずかに震えた。
「──けれど、その力は確かに現実を変える力です。」
エドリックは笑みを浮かべながら言った。
「確かに。だが、それは……一部の人間にとっての価値に過ぎない。」
意味深なその言葉に、エレは警戒心を強める。
「一部の人間……とは?」
彼は答えなかった。代わりに、椅子から立ち上がり、衣の埃を軽く払うような仕草を見せた。
「エレノア姬、今日の話はここまでにしよう。」
その口調は丁寧だが、はっきりと“拒絶”を含んでいた。
「またお会いしましょう。……今度は、もっと面白い“切り札”を持ってきてくれることを期待しています。」
その言葉に、エレの胸はきゅっと締めつけられた。
拒まれた。
それを理解しながらも、もう一言だけと口を開こうとするが──
「護衛、エレノア姬をお送りして。」
エドリックの一言で、それは許されなかった。
エレは悔しげに唇を噛みしめたが、すぐに感情を抑えて立ち上がり、深く一礼する。
「では、次の交渉の場で。」
その声には静かな挑戦の色が宿っていた。
彼女が去った後、エドリックはふっと笑った。
──本当の駆け引きは、ここからだ。




