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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
第一章:仮面の貴族と偽りの舞姫
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(6) 月下の狩人

 「カ……カイン様……?」


 誰かがかすれた声でそう呟いた。


 傷痕の男の顔から血の気が引いていく。

 彼は直接会ったことこそないが、ブレスト領でこの名を知らぬ者はいない。


 しかし。

 目の前の男が、こんなにも冷酷無慈悲な存在だと、誰が知っていただろうか——。


 サイラスは、無言のまま刃を引き、鮮血を滴る剣先をゆるやかに下ろす。

 何かを斬ったばかりのはずなのに、その動作はまるで塵を払うかのように淡々としていた。


「随分とうるさかったな。」

 まるで他人事のように、彼は静かに言う。


「ちょうど通りがかったからな……ついでにゴミ掃除をしておいた。」

 言葉と同時に、彼は微かに手を上げた。


 その合図を受けたかのように、闇の奥から複数の影が現れる。

 全身黒衣に身を包んだ男たち。

 彼の忠実なる従者たちが、音もなく廃工房へと足を踏み入れる。


「こいつらを"片付けろ"。」

 冷ややかに言い放つ。


「生かしておく必要はない。」


 その瞬間。

 黒牙の男たちは、完全に崩れ落ちた。


「ま、待て! 俺たちは何も——!」

 悲鳴が上がるよりも早く、閃光が走る。


 空気を切り裂く鋭い刃音。

 血の匂いが広がる。


 サイラスは、一歩、優雅に後退する。

 血飛沫が靴先にかからぬように。


 そして、冷たく場を見渡した。


「……ああ、それともう一つ。」


 サイラスはふと首を傾げ、視線を角に向ける。

 そこには、縄で縛られたままのエレがいた。


「お前たちが捕らえた"品"……ちゃんと無傷で返せるんだろうな?」

 淡々とした声音。


 だが、その静けさがかえって男たちの恐怖を煽る。

 傷痕の男の肩が、ピクリと震えた。

「も、もちろん……! 彼女たちは……無傷だ……!」


 サイラスの唇が、わずかに弧を描く。

「それは何より。」


 足音も軽く、彼はゆっくりとエレのもとへ歩み寄る。

 そして、その場にしゃがみ込み、手を伸ばした。

 指先が、手際よく縄を解いていく。


「……この街は、どうも物騒だな。」

 囁くように言いながら、サイラスは視線を上げる。

「どうしてお前が、こんな目に遭う?」


 エレはじっと彼を見つめた。

 冷たい夜風が吹き込む。

 だが、それ以上に彼女の胸中には、底知れぬ寒気が広がっていく。


 ——この男は、一体何者なのか。


 貴族の御曹司?

 だが、目の前の男は、己の手を汚すことなく処刑を命じ、その瞳には、一片の迷いすらなかった。


 風流な貴族 どころか——。

 むしろ、狩人ハンター に近い。


「……歩けるか?」

 サイラスの問いは、淡々としていた。


 決して強要するような響きはない。

 だが、同時に拒絶も許さぬ確固たる重みがあった。


 エレは、ふと我に返る。

 軽く手首を動かすと、縄の跡がうっすらと赤く残っていた。


「……大丈夫。」

 小さく息を整えながら、彼女は静かに答えた。


「そうか。」

 サイラスの唇に、わずかな笑みが浮かぶ。


 どこまでも余裕に満ちた、危なげのない微笑。

「なら、ついてこい。」


 エレはすぐには動かなかった。

 無意識のうちに、視線を横へ向ける。

 リタ——。


 まだ縄で縛られたままだったが、サイラスの部下たちがすでに素早くそれを解いていた。

 確実に、そして丁寧に。


 少なくとも、無闇に傷つける意図はないようだ。

 リタの顔には、まだわずかに恐怖の色が残っていた。


 だが、エレが自由になったのを見て、一瞬、安堵の色がよぎる。

 彼女は小さく頷き、「大丈夫だ」とでも言うように、微かに目で合図を送った。


 エレの胸の奥に張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。

 ——彼女たちは、"今のところ"、これ以上の危害を加えられることはなさそうだ。


 ゆっくりと呼吸を整え、エレはサイラスへと視線を戻す。

 そして、深く彼を見つめた後——。


 静かに、しかし確実に、頷いた。

 ——今の彼女に、拒むという選択肢はなかった。



 夜の冷気が肌を刺すように薄く漂い、ブレストの街道は、あの殺戮の余韻を残したまま、不気味な静寂に包まれていた。


 エレは無言のまま、サイラスの後をついていく。

 細い路地を抜け、市場区へと向かう道を歩く。


 言葉は交わされない。

 それでも、彼の背に漂う圧倒的な気配は、否応なしに感じ取ることができた。


 ——この男、ただの貴族ではない。


 視線を僅かに横へ流す。

 彼の左耳に揺れる、月長石ムーンストーンのピアス。


 夜の淡い光を受け、青白く仄かに輝いていた。

 まるで、闇夜に瞬く微かな光のように——。


 ——この輝き、どこかで見たことがある。


 エスティリアでは、月長石は聖女の加護と神聖なる血統を象徴するとされる。

 その石は、聖女の血を引く者のみが共鳴させることができると伝えられていた。


 彼女の母、蒼月の聖女 莉奈(リナ)


 彼女が持っていたのも、聖女の継承を示す月長石の装飾品だった。

 本来なら、この宝石はエスティリアの王宮、あるいは神聖なる力を持つ者の手にしかないはず——。


 ——それなのに。

 今、目の前のノヴァルディアの貴族が、それを身につけている。


 エレの眉が、かすかに寄る。

 胸の奥を、言いようのない不安が掠める。


 ——なぜ、この男が、これを持っている?

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