(59) 琥珀の誓約
「エレはまだ諦めていないはずだ。
彼女はすぐに新しい切り札を持って、またお前に会いに来るだろう。」
サイラスは額の痛みを感じながら、気怠げに言い放った。
彼の表情に変化はなかった。相変わらずの気まぐれな笑みを浮かべていたが、心の奥底では、何かが深く静かに裂けていく感覚があった。
あの氷のように透き通った青い瞳——
サイラスは手を伸ばし、うっすらと痛む額を押さえる。
エドリックはサイラスをじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「その口ぶり、まるで彼女のことをよく理解しているみたいだな……だが、狩猟場で会ったとき、お前はこう言ったよな?」
「『もう覚えていない』って。」
サイラスは答えなかった。ただ左耳のピアスにそっと触れ、その冷たい感触を確かめるように指先で弄んだ。まるでエドリックの言葉など、何の意味も持たないかのように。
カミラは薄く微笑みながら、優雅に茶を口に運ぶ。そして、視線をサイラスの耳元に留めると、ふと意味深な口調で言った。
「……琥珀のピアス、あなたが贈ったものでしょう?」
「でも、エレ嬢はそれをエドリックがくれたものだと勘違いしていたみたいね?」
「だからこそ、あんな大胆な行動に出たんじゃない?」
エドリックも静かに微笑み、深紅の瞳を細める。
「仕方のないことだ。」
「公には、あの時の身分はそういうことになっていた。」
「エレノア王女の推測は、決して間違ってはいない。」
彼は指先で机を軽く叩き、ふと付け加えた。
「それに、エスティリアには誓約祭の文化はない。」
「琥珀の意味を知らなかったとしても、別に不思議じゃないさ。」
サイラスは目を伏せたまま、二人の会話を聞いていた。
杯の中の茶が静かに揺れ、過去の記憶を映し出していく。
琥珀色の瞳がわずかに揺らぎ、思考が遠くへと漂い始める——
◆ 「回憶・誓約祭の琥珀石ピアス」
あの年。
それはサイラスがブレストに戻って初めて迎えた誓約祭。
エスティリアを離れてから、もう随分な時間が経っていた。
あの日、エドムンド侯爵に呼ばれ、いつものように問いかけられた。
「欲しいものはあるか?」
サイラスは最初、特に何も思いつかなかった。
元々、自分から何かを望むような人間ではなかった。
しかし、その時、耳元で月長石のピアスが微かに揺れた。
ひんやりとした感触が、ある記憶を呼び覚ます。
「……もし可能なら。」
サイラスは一瞬迷いながらも、そっと口を開いた。
「琥珀色のピアスが欲しい。」
「——誰かに贈るのか?」
エドムンド侯爵は眉をわずかに上げた。
鋭い深紅の瞳が、一瞬で全てを見透かしたようだった。
「エスティリアの王女に?」
サイラスは息を呑み、唇を固く噛み締めた。
返事はしなかった。
しかし、侯爵は彼を問い詰めることもなく、ただ穏やかに微笑み、従者に命じた。
しばらくすると、精巧に作られた琥珀のピアスが目の前に差し出された。
——温かみのある、透き通った琥珀。
まるで陽光を閉じ込めたように輝く、純粋な黄金色。
それは、彼自身の瞳の色と寸分違わぬ色合いだった。
サイラスはそっとピアスを手に取り、光に透かしながら眺める。
胸の奥で、何かが静かに波打つ。
侯爵はそんな彼の様子を見て、ふと微笑む。
「これは、なかなか高価な贈り物だ。」
「……だが、彼女にはこの意味が分からないだろうな?」
サイラスはピアスをじっと見つめながら、かすかに微笑んだ。
「……分からなくていい。」
彼女が分からないからこそ、安心できる。
琥珀——それは、この帝国では王権の象徴。
皇族だけが持つことを許される色。
貴族同士の誓約祭では、琥珀を送ることなど滅多にない。
なぜなら、それは「普通の感情を超えた特別な誓い」を意味するから。
だが、エレはそのことを知らない。
彼女にとって、それはただのピアス。
——遠い昔の知り合いが贈った、何の変哲もない記念品。
それで十分だった。
それ以上の意味は、必要なかった。
サイラスは静かに筆を取り、小さな羊皮紙に短い言葉を綴る。
——「琥珀のように、いつまでも強くあれ。」
感情を込めず、ただ単なる「祝福」のように。
サイラスはそれを折りたたみ、ピアスと共に小さな箱に収める。
そして、それを信頼できる使者に託し、エスティリアへと送らせた。
それが、彼の最初の誓約祭。
——そして、唯一、晶石を贈りたいと思った相手は
遠く、別の国にいた。
——そして、その心は、決して届くことのない場所にあった。
◆
エドリックはずっと静かに彼を見つめていた。
サイラスが杯の中の液体をぼんやりと見つめているのを確認すると、彼はふと思わせぶりな笑みを浮かべる。
「少し休んだらどうだ?」
エドリックは軽い口調でそう言った。
サイラスはわずかに瞳を瞬かせ、琥珀色の眼差しをぼんやりと揺らした後、すぐに口元を歪めて薄い笑みを浮かべる。
「心配してくれるとはな。珍しいこともあるもんだ。」
その声は気怠げで、どこか皮肉めいていた。
エドリックは否定せず、ただ含みのある笑みを返す。
「……この後の面会、お前も直接見届けたくなるはずだ。」
サイラスは何も答えず、ゆっくりと立ち上がると、軽く伸びをした。
「そうか……なら、遠慮なく休ませてもらおう。」
しかし、その瞬間、彼の視界の端でカミラの視線が絡みついた。
淡い紫の瞳が、まるで面白いものを見つけたかのようにわずかに揺らめく。
彼女は静かに微笑み、やわらかな声で問いかけた。
「サイラス殿下、本当にご自分が"無傷"で済むと思って?」
サイラスはほんの僅かに目を細めたが、何も言わずに薄く嗤うと、そのまま踵を返した。
彼の背が遠ざかるとともに、紫水晶の瞳がふたたび意味ありげに細められる。




