(58) 紅茶の裏
翌朝のロイゼルは澄み渡る青空に包まれ、庭園には甘やかな花の香りが漂っていた。
しかし、そんな美しい朝も、サイラスにとっては何の慰めにもならなかった。
朝早くからエドリックの召喚を受け、カミラの屋敷へ向かうよう命じられたのだ。
どれほど避けようと足掻いても、結局は逃げ切れない。
昨夜の酒が回りすぎたせいで、頭が鈍く痛む。
だが、それよりも厄介なのは——
「エドリックの狙いは何だ?」
◆
庭園に足を踏み入れると、冷たい朝の風が頬を撫でた。
そして、目の前には優雅な朝食の光景が広がる。
エドリックはすでに席に着き、ゆったりと紅茶を口に運んでいた。
その隣にはカミラ。彼女は上品な笑みを浮かべ、彼と軽やかに会話を交わしている。
彫刻が施された木製のテーブルの上には、エスティリアから伝わった蜂蜜ケーキと銀製のティーセットが並び、異世界の紅茶の香りが甘く鼻をくすぐる。
まさに、貴族の優雅な朝の典型だった。
——だが、サイラスの目には、ただ苦々しく映るばかりだった。
机の上に並ぶ菓子に目をやるが、食欲など湧かない。
宿酔による鈍痛が頭を締め付ける。
そして——左腕には、昨夜の暗影が今なおささやき続けるような、鋭い痺れ。
「カイン様、いらっしゃいましたね。」
カミラが微笑みながら彼を見やる。
その声音には、ほんの僅かにからかうような響きがあった。
「もしかして、誰にも挨拶せず、そのままひっそりと姿を消そうとしていたのでは?」
サイラスはそれに返事をせず、無言のまま椅子を引いた。
適当に座り、指先でこめかみを押さえる。
微かに袖が落ち、包帯が巻かれた前腕が露わになる——
その端から滲んだ暗紅色を、彼はすぐに袖を引き戻して隠した。
「で、殿下。」
サイラスは気怠げに口を開く。
「こんな朝早くに呼び出すとは、一体何の用だ?」
言葉には明らかに不機嫌さが滲んでいた。
エドリックはすぐに答えず、茶をゆっくりと一口含み、紅色の瞳でちらりとサイラスを一瞥する。
そして——
「飲み過ぎたか?」
「顔色が悪いぞ。」
「それに——その腕。単なる転倒の怪我には見えないが?」
サイラスは無言で彼を睨み、左手を静かに下ろした。
包帯が見えないように袖口を引き直し、不快な熱を隠す。
カミラはくすくすと笑い、小さな匙でケーキを切り分けながら言った。
「エスティリアの紅茶と蜂蜜ケーキ、特別に用意した朝食なのに、カイン様は少しも手をつけないのですね?」
「それとも、まだ昨夜の気分を引きずっているのかしら?」
彼女の声音は優雅だが、含みを持っていた。
サイラスは彼女を横目で見ながら、ゆるく眉を寄せる。
こいつらが何か企んでいることは、明白だった。
「……いい加減、本題に入れ。」
苛立ちを隠さず、サイラスはエドリックへと視線を向ける。
エドリックは僅かに笑い、ゆっくりとカップを置いた。
そして、皮肉めいた口調で言う。
「すべて俺に任せて、悠々と去るつもりか?」
「それはずいぶんと気楽な話だな、サイラス。」
——鋭い頭痛が、こめかみを刺す。
サイラスは眉をひそめた。
エドリックが、ただ茶を飲むために自分を呼んだわけがないことは、最初から分かっていた。
——だが、これは明らかに、罠だった。
「お前は彼女をここに連れてきて、ちょうど誓約祭に間に合わせた。琥珀石を身に着けた彼女を人前で踊らせた——」
エドリックはゆっくりと首を傾げ、探るような微笑を浮かべる。
「これは意図的なものか、それとも偶然か?……正直に言えば、お前自身が一番よく分かっているはずだろ?」
サイラスは椅子の背にもたれかかり、眉間を揉みながら静かに息を吐いた。
この男の言葉は、ただでさえ鈍く痛む頭をさらに苛むようだった。
「俺は何もしていない。」
サイラスの声は淡々としている。
「全ては彼女自身の判断だ。俺はむしろ、止めようとしたくらいだ。」
エドリックは目を細め、あまり納得がいかない様子で問い返す。
「——ほう? 本当にそうか?」
サイラスは軽く肩をすくめ、机の上で指を組みながら静かに言った。
「俺の最初の目的は、ただ彼女を帝都に送り届けることだった。」
「ブレストに留まれば、人攫いに売られるのが関の山だったからな。」
エドリックは無言のまま、指先で机を軽く叩きながら何かを考えている様子だった。
やがて、彼はゆっくりと口を開く。
「では、今は?」
「お前は本当に手を引くつもりか?」
「彼女の計画はまだ途中だ。そして、お前は——」
「——本当にここで抜けるつもりなのか?」
サイラスはすぐには答えず、視線を落とし、揺らめく茶の水面をじっと見つめた。
エドリックは杯を手に取り、紅の瞳で静かにサイラスを見つめる。
「正直に言おう——彼女との縁があるのは、俺ではなく、お前だ、サイラス。」
サイラスの指先が机を軽く叩く。
その瞳が、わずかに陰る。
「俺は、価値のない者にも、縁もない者にも手を差し伸べるつもりはない。」
エドリックの声は静かで、だが、揺るぎない決断を含んでいた。
サイラスはふと視線を動かし、エドリックとカミラの間を見つめる。
そして、ぽつりと問いかけた。
「ここでそんな話をしてもいいのか?」
エドリックは笑みを深め、当然のように言い放つ。
「カミラは未来の王太子妃だ。いずれ全てを知る立場になる。」
カミラは優雅に菓子をつまみ、ゆっくりとそれを口に運んだ後、サイラスへと視線を向ける。
彼女の唇には、どこか意味ありげな笑みが浮かんでいた。
「サイラス殿下?」
彼女は、まるで試すような口調で、彼をそう呼んだ。
「本来なら、先ほどの無礼な態度を咎めてもいいところでしたわ。」
——帝都に近づくほど、自分の正体を隠すのは難しくなる。
サイラスは軽く息を吐き、薄く微笑んだ。
それはどこか自嘲めいた笑みだった。
「だが、『殿下』と呼ぶのは少し違うんじゃないか?」
「俺は王族として認められたことはない。」
エドリックとカミラが目を合わせる。
短い沈黙の中、杯が皿の上に置かれる音が妙に鮮明に響いた。
——その時、サイラスは二人の手元にあるものに気付く。
薬指に嵌められた指輪。
深紅のルビーと、輝く紫水晶。
説明するまでもなく、それが何を意味するか分かった。
これは「晶石誓約」の象徴。
視界と魂を繋ぐ、誓約の証。
つまり——
——たとえまだ婚礼を挙げていなくとも、カミラは正式に「王太子妃」として認められたということだ。
彼女とエドリックの関係は、もはや揺るがぬものとなっている。




