(57) 冷たい別れ
エレは息を呑み、ほぼ逃げるように扉へと駆け出した。
乱暴に扉を開け放ち、振り返ることもなく、廊下へと飛び出す。
——考える余裕なんて、なかった。
怒り、屈辱、羞恥、そして何よりも、自分自身への苛立ち。
胸の鼓動は異常なほどに早まり、冷静になれと言い聞かせても、感情が全身を支配していた。
ただ、一刻も早く、あの部屋から離れたかった。
足音を響かせながら、自室へと駆け戻る。
そして——
「っ……!」
背中を扉に預けるようにして、乱暴に閉める。
バタンッ——
音が響く。
途端に、全身の力が抜けた。
その場に崩れるように座り込み、肩で息をする。
指先が震えていることに気づいたが、今はそれすら制御できなかった。
——頭の中で、彼の言葉が繰り返される。
(その身体で俺に返すのはどうだ?)
「……っ!!」
エレは反射的に自分の腕を抱きしめた。
爪が肌に食い込むほど、強く。
何度も何度も心の中で否定する。
あれは、ただの挑発だ。
彼は本気で言ったわけじゃない。
それなのに——
それなのに、どうして
「彼の言葉に、動揺してしまった?」
(それとも、エドリックの元へ行って——その身体を売るか?)
「やめて……!!」
彼の声が頭の中で鳴り響く。
耳を塞ぎたくなる。
記憶をかき消したくなる。
——こんなことで、揺さぶられるなんて。
「……っ」
奥歯を噛み締め、乱れる呼吸を整えようとする。
このままでは、ダメだ。
彼の言葉に屈するな。
こんなことで、崩れるな。
エレは、ゆっくりと立ち上がる。
まるで自分に言い聞かせるように、深く息を吸った。
そして、窓辺へと向かう。
布幕を乱暴に払いのけ、窓を開く。
——冷たい夜風が、一気に部屋へと流れ込んだ。
身を切るような冷たさ。
その感触が、熱くなりすぎた頭を冷やしていく。
「……まだ、終わりじゃない。」
エレは呟く。
まだ、できることがある。
彼の言葉に振り回されている場合じゃない。
今、自分に必要なのは「感情」ではなく、「武器」。
エドリックを動かすための「切り札」。
自分がこの交渉で優位に立つための「理由」。
——今夜のように、追い詰められるのはもうごめんだ。
何としてでも、主導権を奪い返す。
「絶対に。」
◆
サイラスは静かにその背中を見送った。
廊下を駆ける足音が、徐々に遠ざかっていく。
彼は微かに指を握りしめ、しかしすぐに力を抜き、また酒杯を手に取る。
残った酒を一息に飲み干した。
喉を焼く苦みと熱が、わずかでも何かを紛らわせてくれるかと思ったが——
「……ハ。」
低く、かすかな笑い声が漏れる。
サイラスは空になった酒杯を軽く机の上に置き、深い眼差しでそれを見つめた。
——これでいい。
扉の外で、アレックがためらいがちに口を開く。
「……これで、本当に良かったんですか?」
サイラスは答えなかった。
再び酒を注ぎ、静かに杯を揺らす。
そして、数秒の沈黙の後、淡々とした声で言った。
「今、彼女を助けられるのはエドリックだけだ。」
アレックは一瞬、息を呑む。
何か言いたげな表情を浮かべたが、結局何も言わず、ただサイラスをじっと見つめた。
サイラスは無造作に酒を飲み干し、乾いた音を立てながら杯を置いた。
「明日、ブレストへ戻る準備をしろ。」
「……こんなに早く?」
アレックは僅かに目を見開いた。
思っていたよりもずっと早い決断だった。
「では、エレさんは?」
サイラスの指が軽く机の縁を撫でる。
「彼女は、彼女の道を進むだけだ。」
琥珀色の瞳が、揺れる蝋燭の光を映し込む。
「もう、俺たちが関わる必要はない。」
アレックは沈黙した。
——わかっていた。
サイラスがこの決断を下すことは、予想できていた。
だが——
「カイン様。」
慎重に言葉を選びながら、アレックは問う。
「……本当に、彼女をエドリック殿下に預けるおつもりですか?」
「エドリックが助けられないなら、俺たちに何ができる?」
サイラスは薄く笑う。
冷たい微笑みだった。
まるで、すべてを断ち切るような——
それとも、すべてを諦めるような——
アレックは唇を噛んだ。
「……馬の用意を手配します。」
「ついでにカミラにも挨拶をしておけ。礼儀は守らないと、面倒だからな。」
アレックは一瞬ためらったが、結局は何も言わず、そのまま部屋を後にした。
——扉が閉まる。
再び、静寂。
サイラスは椅子にもたれ、ゆっくりと目を閉じる。
左手の指先が無意識に耳元へと伸びた。
指先が触れるのは、月長石のピアス。
「明日になれば、ここを離れられる。」
「それで……良いはずなのに。」
彼の指が、かすかに震えた。