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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
舞踏会の暗流

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(56) 現実へ戻る

 揺らめく燭火が壁に影を落とし、そこに細い亀裂が浮かび上がるように見えた。


「……」


 サイラスの指先が、無意識のうちに左耳のピアスへと触れる。

   月長石——それは、祝福と守護の象徴。


 太陽の下、無邪気に笑うエレ。

 庭園の片隅で、蜂蜜を塗ったリンゴを分け合ったあの日。

 夜の静寂の中、こっそりと彼の傷に薬を塗る小さな手。

   

 それらの光景が、まるで昨日の出来事のように鮮明に蘇る。

 だが、今——

   彼女はもう、自分ではなく、エドリックに微笑んでいる。


 サイラスは静かに目を閉じ、酒杯を卓上へと置いた。

   カチンと微かな音が響く。


 自分はこの結果を受け入れるつもりだった。

   そのはずだったのに——


 いざ目の当たりにすると、どうしようもなく拒絶したくなった。


「……エレ……」

 彼は低く呟いた。

   それは、まるで過去の幻影に語りかけるような、儚い囁きだった。

 その時——


   扉の外から、控えめなノックの音が響いた。


 サイラスは静かに目を開き、心の奥底に渦巻く感情を押し殺す。

   普段と変わらぬ冷淡な口調で答えた。


「……入れ。」


 扉が開き、アレックが姿を現す。

   彼はわずかに躊躇しながら室内へと視線を滑らせ、床の暗い染みを一瞥するも、すぐに目を逸らした。


「……カイン様、エレさんが戻りました。」


 一拍の間。

 アレックの指先が剣の柄を握り込み、迷うように口を開く。


「彼女は……何か貴方と話したいことがあるそうです。ですが、お疲れでしたら、明日の朝に——」


 サイラスは椅子の背にもたれながら、酒を杯に注ぐ。

   袖口にそっと指を当て、一瞬だけ押さえた後、静かに離す。


「……通せ。」


 アレックは頷き、踵を返して扉の外へ。

   そして数瞬後——


 エレが、部屋の入り口に立っていた。




 エレは扉の前で立ち止まり、部屋の奥のサイラスを見つめた。

  その瞳には、迷いのない決意と、わずかな苛立ちが滲んでいた。


 対するサイラスは、ゆるく口元を吊り上げる。

  その微笑は皮肉めいた戯れの色を帯びていた。


「……その顔を見る限り、交渉はうまくいかなかったようだな?」

 慣れ親しんだ、どこまでも飄々とした口調。

  それが今は、エレの神経を逆撫でする。


 彼女は冷たくサイラスを睨みつけ、そのまま部屋へと歩み入ると、バタンと扉を閉じた。


「あなたとエドリック殿下は仲がいいんでしょう?」

 彼女は低い声で問いかける。


「だったら、最初からこうなるって分かってたんじゃないの?」

 その言葉には苛立ちだけでなく、微かな疲労も滲んでいた。


 サイラスは片眉を上げ、肩をすくめる。

「最初から言っただろ?」


 淡々とした声で応じる。

「無駄だって、忠告したはずだ。」


 エレの指がぎゅっと拳を握り込む。


「……それで?」

 「今度は高みの見物ってわけ?」


 わざと棘を含ませた声。

 だが、サイラスは特に動じた様子もなく、薄く笑いながら応じる。


「さぁな。俺に頼むつもりなら、まずは聞こうか。」

 杯を傾けながら、わざとゆったりとした口調で続ける。


「お前は俺に何をくれる? 同盟か? 利益か? それとも……」


 言葉の最後を、意図的にぼかす。

  彼は興味を引くように言葉を弄ぶが、エレは怯まず、その瞳をまっすぐに向ける。


「あなたも『蒼月の聖女』を知っているでしょう?」


 サイラスの表情が、一瞬だけ変わった。

 エレの視線が、彼の左耳の月長石へと向けられる。


「……彼女の安否が気にならない?」

 その問いかけは、まるで相手の心の奥を探るかのように慎重だった。


「それとも——その月長石を贈った女性、彼女はまだエスティリアにいるのでは?」


「……!」

 かすかに指先が動いた。


 サイラスの指が、月長石の表面をなぞる。

  動作はごくわずかだったが、それだけで部屋の空気は一変した。


 火の灯るランプの光が、揺らめきながら壁に影を映し出す。

  しんと静まり返った空間で、一瞬の沈黙が満ちる。


「お前、情報を使うのが上手いな。」

  軽薄な口調の裏に、拭いきれない深い影が滲む。


 エレは怯まずに彼を見据え、返答を待った。

 サイラスは数秒の沈黙の後、ゆっくりと立ち上がる。

  悠然と歩を進めながらも、その歩みには抗えぬ圧力があった。


 そして、目線を合わせるように身を屈め、琥珀の瞳で彼女を射抜く。

  その色は、どこまでも深く、底が見えない。


「エレ——」

 低く、囁くような声。


「お前、本当に自分が何を賭けているのか分かっているのか?」


 エレが反論しようと口を開いた瞬間——

 突如として、強い力が彼女を押し倒した。


「っ……!」


 息を呑む間もなく、サイラスの影が覆いかぶさる。

  両手首はしっかりと押さえ込まれ、柔らかな寝台に沈み込む。


 逃げられない。


 エレの心臓が激しく跳ねた。

  本能的に身を捩るが、圧倒的な力の差がそれを許さない。


「……放せ!」


 彼女は歯を食いしばり、怒りを滲ませながら叫ぶ。

  氷のように透き通った瞳には、激しい憤りと屈辱が渦巻いていた。


 サイラスはそれをじっと見つめ、微動だにしない。

 琥珀の瞳が、揺れる燭火の中で冷たく光る。

  彼の息遣いは熱を帯び、ほのかに酒の香りが混じる。

  この距離の近さを、否応なく意識させるように。


「条件を話しに来たんだろ?」


 声は低く、静かに揺さぶるような響き。

  軽蔑と嘲弄が入り混じった、冷ややかな問い。


「どうやって俺に手を貸させるつもりだ?」


 エレは睨みつけるように視線をぶつけ、必死に反抗の意思を示す。

  だが、その沈黙を見透かしたように、サイラスは嗤った。


「……じゃあ、こっちから“ある選択肢”を教えてやる。」


 彼の指先が、ゆっくりと彼女の鎖骨をなぞる。

 ぞくり——

 エレの全身が、凍りついた。


「例えば——」

 囁くように、悪戯めかして。


「その身体で俺に返すのはどうだ?」


 その瞬間、エレの瞳が見開かれる。


「……っ!」


 驚愕と怒りが、氷のように冷たい感情となって彼女の奥底から湧き上がる。

  サイラスは、そんな彼女を面白がるように目を細める。


「なぁ、悪くない取引だろ?」

 彼の唇が、ゆっくりと彼女の耳元へと近づく。


「——それとも?」


 低く、冷たく。


「エドリックの元へ行って、そっちで身体を売るか?もしかしたら、庇護してもらえるかもしれないぞ?」


 ——瞬間、何かが弾けた。


「……黙れッ!!」


 エレは叫んだ。

 怒りと屈辱で全身が震える。

  込み上げる激情を抑えきれず、彼女は瞬時に行動を起こした。

 膝を振り上げ、思い切り彼の腹部を狙う。


 ——だが。

 サイラスは反射的に身を翻し、寸前で躱す。

  同時に、押さえつけていた手を緩める。


 解放された瞬間、エレは素早く上体を起こした。

 その目には、これまでにないほど強い怒りが燃えている。


「……っ、最低よ!」

 震える声で、彼を睨みつけた。


 サイラスはゆっくりと立ち上がり、彼女を見下ろす。

  唇の端がわずかに吊り上がるが、

  その笑みには、まったく感情が宿っていなかった。


「……そうか?」


 淡々とした声。


「これはただの“現実”だ。」

 言葉を突きつけるように、冷たく言い放つ。


 エレの胸が、苦しく締めつけられた。

 この男は、本気でそう思っているのか?

  それとも、ただ彼女を試しているだけなのか?


 答えは分からない。


 ただ一つ、確かなことは——

 この交渉は、最初からフェアなものではなかった。

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