(55) サイラスの回想
夜が更け、静まり返ったロイゼルの貴族邸宅は、闇の帳に包まれ、一層寂しさを増していた。
ゆらめく燭火が机の上に半分ほど満たされた酒杯を照らし、赤褐色の液体が揺らめくたび、ぼんやりとした琥珀色の瞳が映し出される。
サイラスは椅子に座り、左袖をまくりかけてはやめ、指先についた暗紅色の痕跡を素早く拭い去った。微かに荒い息遣い——まるで深い奈落から這い上がったばかりのようだった。
彼は無造作に酒杯を回し、深いため息をつく。
覚悟はできているつもりだった。
なのに——
彼女がエドリックに向けたあの微笑み。あの久しぶりの笑顔。
心臓が鈍く痛む。サイラスは自嘲気味に微笑み、酒を一気に喉へ流し込んだ。
喉を焼くような微かな辛み。しかし、それでも胸の奥の苦みも、左腕に走る刺すような痺れも、まるで薄れない。
視界がわずかに滲む——記憶の奥底に沈んでいた映像が、まるで酒の力に引き寄せられたかのように、ゆっくりと蘇り始める。
◆
——(「君の瞳って、とても綺麗。」)——
「ねえ、どうしていつも俯いてるの?」
柔らかい少女の声が、不満げに響いた。
サイラスは僅かに戸惑いながらも、ゆっくりと顔を上げる。
陽の光の下に立つエレがいた。
まだ幼い彼女の長い銀白色の髪が、そよ風に揺れている。湖のように透き通った氷の青い瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。
「君の瞳、とても綺麗だよ。まるで太陽みたいに輝いてる。」
サイラスはわずかに眉を寄せ、視線を逸らしながら呟いた。
「……勝手に言ってろ。」
彼女の言葉は、まるで湖に落とされた一粒の小石のようだった。
静かな水面に波紋を生み、ゆっくりと心の奥に広がっていく。
物心ついた頃から、サイラスは常に伏し目がちだった。
自分の瞳は目立ちすぎる。あまりに特徴的で、人々の関心を引き寄せてしまう。
だから、人と目を合わせないことをずっと当たり前のようにしてきた。
けれど、彼女は違った。
まるで当然のように、その瞳を「綺麗」と言い切った。
「ねえ、もう下を向くのはやめたら? その方が王族らしく見えるわよ?」
明るく無邪気に笑う彼女。
サイラスは何も答えなかった。
だが——
その日を境に、彼は知らず知らずのうちに、前を向くことを意識し始めていた。
それは、かつての彼には決してなかった習慣だった。
◆
——(「しょうがない、一緒に食べよっか。」)——
午後の王宮庭園。ひっそりとした片隅で、サイラスは何気なく通り過ぎようとした——だが、そこで思いがけず見覚えのある姿を見つけた。
石のベンチの上にうずくまるように座り、ひとり静かに何かを抱えている少女。
彼女の腕の中にあるのは、半分に割られたリンゴだった。その表面にはたっぷりと黄金色の蜂蜜が塗られ、甘い香りがふわりと漂っていた。
サイラスが足を止めた瞬間、少女はピクリと動きを止めた。
——エレ。
彼女はゆっくりと顔を上げ、目が合った途端、驚いたように固まった。そして、まるで秘密のおやつを見つかった子猫のように、両手でリンゴをかばう。
「……き、君、見てないよね?」
おずおずとした声。どこか後ろめたそうな響き。
サイラスは眉を上げ、無表情で答えた。
「今まさに見ているが?」
エレの口元がピクリと動き、すぐに観念したようにため息をついた。
そして、半ば諦めたような表情で、そっとリンゴを差し出してきた。
「……しょうがない、一緒に食べよっか。でもね、絶対誰にも言っちゃダメだよ。じゃないとマミーに怒られるから!」
サイラスは目を細め、興味深そうに彼女を見つめる。
「俺が告げ口をしない保証は?」
「エドリックならしないもん!」
エレは胸を張って言い切った。まるでそれが当然のように。
彼は何も言わず、ただリンゴを受け取り、ひと口かじった。
甘い蜂蜜の香りが口いっぱいに広がる。ほどよい酸味を持つリンゴの果肉と、蜂蜜のまろやかな甘さが絡み合い
——それは、記憶の中に深く刻まれる特別な味となった。
◆
——(「誰にも言うなよ!」)——
深夜、王宮の寝室。かすかに揺れる蝋燭の灯が、静かな部屋を淡く照らしていた。
サイラスはベッドの端に腰掛け、無言で足首をさすった。まだ鈍い痛みが残っている。
昼間の騎乗訓練で落馬し、足をひねったのだ。宮廷の侍従が手当てをしてくれたが、その態度は機械的で、そこに気遣いの色はなかった。
だが、それも当然のこと。
彼はとっくに慣れていた。
——だから、扉が静かに開かれる音を聞いたとき、彼は思わず眉をひそめた。
「……何しに来た?」
そこに立っていたのは、エレだった。
彼女は何かを大事そうに抱えている。
近づいてきた彼女の手には、小さな瓶——薬草をすりつぶした軟膏のようだった。
サイラスが何か言うより早く、エレは当然のように膝をつき、彼の足を掴んだ。
「……薬を塗るよ!」
言葉に迷いも遠慮もない。まるで、それが当たり前のことのように。
サイラスは彼女をじっと見つめた。
エレは小さな手で軟膏を押し出し、不器用に傷口へ伸ばしていく。
塗り方はぎこちなく、ムラもある。明らかに慣れていない——おそらく、初めての試みだろう。
「……ここには侍従がいることを知らないのか?」
「知ってるよ。でも、あの人たち、こういうことはしてくれないでしょ?」
エレはあっさりと答えた。その言い方は、まるで「そんなの当たり前じゃない」と言わんばかりだった。
「動かないで、じっとしててね。そうすれば、早く治るから。」
サイラスは目を伏せた。
彼女は気づいていない。
——これが、彼にとって初めての「誰かが自分を気にかけてくれた」瞬間だったことを。
「……誰にも言うなよ。」
エレは小さな声で付け加えた。
「じゃないと、怒られちゃうから。」
サイラスはふっと小さく笑った。
それは、心からの笑みだった。




