(54) 馬車の中での決意
馬車がゆっくりと進む中、エレは窓の外に流れる街並みをぼんやりと眺めていた。
エドリックに会えば、何か希望が見えるはずだった。
しかし、現実は彼女が予想していたよりもずっと厳しかった。
エドリックは冷静で、理知的で、そして容赦がなかった。帝国の支援を得ることが、これほど困難だとは思っていなかった。
彼女はまだ、交渉の場に立つには未熟だった。
「……姫様。」
隣に座るリタが、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「どうやら、あまりうまくいかなかったようですね?」
エレは苦笑した。
「……何を見て、そう思ったの?」
「姫様の目を見れば、すぐに分かります。」
リタはそう言って、優しい眼差しを向ける。
「差し支えなければ……どうなったのか、教えていただけますか?」
エレは少しだけ沈黙した後、小さく息を吐いた。
「エドリックに会えたわ。でも、彼の態度は冷たかった。彼は、私と個人的な繋がりなどほとんどないと言ったし、帝国が滅びた王国の姫を助ける理由はない、とも。」
リタの表情がわずかに曇る。
「……では、これからどうされるおつもりですか?」
「今、私は理解したの。」
エレはまっすぐ前を見つめ、静かに、しかし力強く続けた。
「エドリックに頼るだけでは足りない。私は自分の価値を高め、彼が私を利用する理由を作らなければならない。」
その言葉に、リタは少し考え込んだ後、頷いた。
「つまり……姫様は、エドリック殿下との関係を強化しつつ、自らの影響力を示していくおつもりなのですね?」
「ええ。」
エレの瞳に迷いはなかった。
「私は、もっと多くの可能性を手に入れなければならない。」
馬車の車輪が静かに石畳を踏みしめる音だけが、二人の間に響く。
その時、エレの脳裏に、宴の最中に気になったことがふとよぎった。
——そういえば、カインは?
エレは眉をひそめ、リタに尋ねた。
「……そういえば、リタ。私、宴の途中でカインの姿を見なかったわ。彼は、宴が終わる前に帰ったの?」
リタは一瞬だけ目を伏せた後、慎重に答えた。
「はい、姫様。カイン様は、宴が半ばに差し掛かる頃には姿を消されていました。アレックがそれに気づいて、しばらく後を追ったようです。」
「……彼、何かあったの?」
「それが……」
リタは少し言い淀んだ。
「アレックによると、カイン様の様子が少しおかしかったと。何か考え込んでいるようで……あまり機嫌が良さそうには見えなかったそうです。」
エレの胸に、言いようのない違和感が広がる。
——カインが宴の途中で姿を消した?
それ自体は、彼の性格を考えれば不思議なことではない。
カインはもともと社交の場が嫌いだ。貴族の枠に縛られることを何よりも嫌う彼が、途中で宴を抜け出すのはむしろ自然なことだ。
しかし、エレが本当に気になったのは、カミラが言っていた「カインとエドリックの関係」だった。
——彼らは、ただの他人ではない。
もしカインがエドリックと深く関わっているのなら、彼は私が王太子と接触するための「鍵」になり得るのではないか?
その考えが浮かんだ瞬間、エレ自身も驚いた。
彼女は今まで、カインを政治的な駆け引きの対象として見たことがなかった。
しかし、今の彼女にとって最も重要なのは、「いかにしてエドリックにとって価値のある存在になるか」——そのために使えるものは、何でも使わなければならない。
もしカインが協力してくれるなら、彼の立場を利用することで、王太子に対してより強い影響を与えることができるかもしれない。
だが……彼が、私に手を貸してくれるだろうか?
馬車の揺れに合わせるように、エレの心は揺れ動く。
リタは彼女の思考を邪魔しないように、静かに横に座っていた。
エレはふと、耳元の琥珀のピアスを指でそっとなぞる。
カインの心情も、エドリックの真意も、まだ分からないことだらけだ。
けれど、一つだけ確かなのは——
私は、カインともう一度話す必要がある。




