(53) 宴の後の密談
エレは、案内された部屋で静かに座っていた。
誓約祭の宴の最中、エドリックは「後ほど詳しく話そう」と約束してくれた。そして、彼女はこうして待っている。
豪奢な装飾が施された客間。揺れる燭火が壁に繊細な影を落とし、優雅な雰囲気を演出していた。しかし、その静寂は宴の喧騒とはあまりにも対照的で、かえって圧迫感すら感じさせた。
エレは椅子に腰掛け、両手を膝の上に添えていた。
時間が過ぎる。
何分経ったのだろうか。宴はとうに終わったはずなのに、エドリックはまだ姿を見せない。
——急ぐ必要はない、ということね。
エレは微かに眉を寄せるも、それが当然のことだとすぐに理解した。
彼は帝国の王太子であり、誓約祭は帝国にとって重要な儀式。今の彼にとって、亡国の姫君など優先事項になり得ないのは明白だ。
それでも、彼女は待つことを選んだ。
そしてついに——
扉が開く。
黒と金を基調とした礼服に身を包み、エドリック・ノヴァルディアが部屋に足を踏み入れた。
燭火の揺らめきが彼の金髪に輝きを与え、帝国王族特有の紅い瞳が冷静な光を放つ。
「待たせたな、エレノア王女。」
彼は穏やかな口調でそう告げた。しかし、その声には謝罪の色は一切なかった。
エレは微笑み、静かに立ち上がると、優雅に一礼した。
「お目にかかれて光栄ですわ、殿下。」
エレは天鵞絨張りの長椅子に腰掛け、指を膝の上で軽く組んだまま、目の前の男性を見つめた。
王太子エドリック——
その名は、彼女の記憶の中で幾度も響いた。
かつて、彼に会うことで何かが明確になると思っていた。だが、いざこうして対面すると、現実は彼女の想像よりも遥かに冷徹だった。
エドリックはすぐには言葉を発しなかった。
まずは、目の前の杯に手を伸ばし、静かに一口含む。そして、彼はゆっくりと視線を上げた。
深紅の瞳が、エレの蒼い瞳と交差する。
「エレノア王女——」
落ち着いた声が空間に響く。
感情を排した、冷静な声音。
「正直に言おう。これは予想外の再会だ。」
エレの指先に、かすかに力がこもる。
だが、彼女の表情は変わらない。微笑みを保ったまま、穏やかに言葉を返す。
「確かに、予想外の出来事ではありますね。でも、良い知らせではないでしょうか?」
エドリックは答えなかった。
ただ、杯をそっと置く。杯がテーブルに触れ、小さな音を立てた。
「……君のことは覚えている。」
静かな声が告げる。
その瞬間——
エレの心臓が跳ねた。
覚えている——彼は、私を覚えている。
その事実に、一瞬、胸が熱くなる。
だが——
その次の言葉が、彼女の感情を一気に冷却させた。
「だが、それは幼い頃の記憶だ。」
エドリックの声は淡々としていた。
「過去の記憶は、交渉の材料にはならない。」
エレは一瞬、息を呑む。
その意味を、理解してしまったから。
——そうね。
彼の言う通り。
彼女は、本当は分かっていた。
二人の間に、深い絆などなかった。
ただ、幼い頃に交わしたわずかな記憶。そして、琥珀のピアス。
たったそれだけを頼りに、自分とエドリックの繋がりを探ろうとした。
——なんて、甘い考えだったのかしら。
「では、君が私に会いに来たのは何のためだ?」
エドリックは、指先で軽く机を叩きながら問いかけた。
無駄な前置きはない。核心へと切り込む鋭い問い。
エレは数秒の沈黙の後、ゆっくりと顔を上げた。
「……私には、あなたの支援が必要です。」
静かだが、揺るぎない声だった。
エドリックの紅い瞳がわずかに細められる。
「支援?」
その言葉を淡々と繰り返し、口元にかすかな冷笑を浮かべた。
「王女殿下、本当に自分が何を言っているのか、理解しているのか?」
冷ややかな声音が部屋の静寂に響く。
エレは彼の言葉に込められた距離感と拒絶を感じ取ったが、それでも引くことはなかった。
「……ええ、理解しています。」
「いいや、理解していない。」
エドリックは椅子の背にもたれ、ゆったりとした口調で続ける。
「個人的な関係を抜きにして考えよう。エスティリア王国はすでに存在しない。帝国が関与するとすれば、それは政治的な理由からであり、個人的な情などではない。」
エレの胸がかすかに痛んだ。指先がひそかに強張るのを感じる。それでも、声の震えを抑え、慎重に言葉を選んだ。
「帝国に戦争を求めるつもりはありません。ただ……私は庇護が必要なのです。」
「庇護?」
エドリックは微かに身を乗り出し、両手を組んでエレを見据えた。
「帝国が、何のために君を庇護する必要がある?」
——来た。
この問いこそが、今回の交渉の核心だった。
エレは一度息を整え、静かに口を開く。
「私はエスティリアの王女です。王家の血筋はまだ途絶えていません——」
しかし、言い終わる前に、エドリックは冷たく言葉を切った。
「だからどうした?」
紅い瞳が冷えた光を帯びる。
「王族の血を引いていることが、帝国が君を受け入れる理由になるとでも?王女殿下、これはおとぎ話ではない。」
エレは息を呑んだ。
彼の言うことは、正しい。
彼女は、この再会さえ果たせば、全てが明確になると思っていた。
彼が助けてくれるはずだと、心のどこかで期待していた。
だが、そんなものはただの幻想だった。
「帝国の支援が欲しいと言うが……君は何を差し出せる?」
エドリックは、皮肉めいた笑みを浮かべながら問いかける。
「軍は持っているのか?支持者は?エスティリアの現状を正確に把握しているのか?……それとも、幼い頃の記憶とその琥珀のピアスを頼りに、私が手を差し伸べるとでも思ったか?」
その通りだった。
エレは何も言えなかった。
心の奥底では、彼が手を貸してくれると信じたかった。
だが、エドリックは王太子だ。情では動かない。彼が見ているのは、帝国の利益のみ。
交渉の場に、甘い幻想など必要ない。
部屋の中に、張り詰めた沈黙が落ちる。
燭火の揺らめきだけが、微かな音を立てていた。
やがて、エドリックは立ち上がった。
冷静な眼差しで、エレを一瞥する。
「私は、あと一日ロイゼルに滞在する。」
——一日。
それが、彼女に与えられた猶予。
「もう一度考えろ。」
そう言い残し、彼は背を向ける。
足音が遠ざかる。
そして、彼は扉の向こうへと消えた。
エレは、椅子に座ったまま、静かに拳を握りしめた。
——足りない。
彼女に欠けているものが、今ようやくはっきりと見えた。
彼の言葉は拒絶だった。
しかし、それと同時に、猶予を与えられたこともまた事実。
つまり——
彼はまだ、完全には切り捨てていない。
エレは息を整え、瞳を閉じる。
この世界は、彼女に多くの時間を与えてはくれない。
ならば——
その限られた猶予の中で、答えを出すしかない。




