(52) 夜風の痛み
宴の喧騒はなおも続いていた。
だが、その賑わいの中から、一つの影が静かに抜け出していた。
サイラスは足を止めることなく、穏やかで揺るぎない歩調で会場を後にし、夜の冷たい風へと身を投じた。
扉の向こうには、すでに彼を待つ者たちがいた。
ノイッシュとアレックが即座に迎え、少し離れた位置にはリタが控えていた。
彼らの目には警戒の色が浮かんでいる。
当然だった。
——宴はまだ終わっていない。
エレが会場に残っているはずなのに、サイラスがここにいる。
それだけで、彼らは違和感を察知していた。
「カイン様、」
少しの躊躇を挟みながらも、リタが静かに問いかける。
「エレさんは……?」
サイラスはすぐには答えなかった。
まるでその問いを咀嚼するかのように、一瞬だけ間を置き、それから淡々と告げる。
「エドリックと接触することには成功した。しばらくは出てこないだろう。」
その口調はいつもと変わらず、どこまでも理知的で、余裕さえ感じさせた。
「だから、待てばいい。」
ふっと目を上げると、琥珀色の瞳には揺らぎの欠片もない。
「俺は先に戻る。」
ノイッシュとアレックが、互いの顔を見合わせる。
何の変哲もないように聞こえる言葉。
しかし、彼らは即座に気づいた。
——軽すぎる。
サイラスは常に冷静で、何事にも動じない男だ。
だが、彼は決して「無関心」ではない。
エレの行動は、この先の全てを決定づける賭けだった。
その瞬間に、彼がこの場を離れるなどあり得ない。
ノイッシュは戸惑いを覚え、サイラスの姿を改めてじっと見つめた。
だが、それより先にアレックの表情が変わる。
眉間にわずかな皺を寄せ、何かを理解したような、あるいは理解したくないものを理解してしまったような、そんな複雑な色を浮かべていた。
「……」
ノイッシュは何かを言いかけたが、アレックがわずかに首を振る。
——聞くな、と。
彼は気づいたのだ。
サイラスの表情は変わらない。
照明の陰になるように、あえて顔を少し背けている。
だが、それでも瞳の奥に滲むものまでは隠せなかった。
それは、彼らが見たことのない「深い痛み」。
ただの落胆でも、焦燥でもない。
——取り返しのつかない喪失を、目の前で見届けるしかない者の目だった。
ノイッシュの口がゆるく開いたが、言葉は出なかった。
何かが、終わろうとしている。
いや、もしかすると、とうに終わっていたものを、サイラスだけがまだ手放せずにいたのかもしれない。
リタが眉をひそめ、何かを言いたげに唇を噛む。
だが、彼女もまた、沈黙を選んだ。
この場で、言葉にするべきではない感情がある。
それを理解していたから。
誰一人、サイラスに問いただそうとはしなかった。
ただ見つめるしかなかった。
孤独を纏った彼の背中を。
彼はただ、一人で歩き去る。
沈黙をまとい、かつてないほどの静けさを身に宿して。
夜風が冷たく吹き抜ける。
そして、未だ語られぬ言葉たちを、闇の向こうへと運んでいった。
サイラスは屋敷の外で足を止めた。
夜風が静かに吹き抜け、袖口に残っていたわずかな温もりをさらっていく。
だが、それでも彼の思考は、さっきの光景から離れることができなかった。
——エレがエドリックに微笑んだ。
それは、心からの笑顔だった。
舞姫としての魅惑的な微笑みでもなく、無理に強がるための余裕ある表情でもなく、ただ……純粋な、希望と期待に満ちた笑み。
久しく見ていなかった、エレノアの笑顔だった。
偽る必要もなく、警戒する必要もなく、策略も疑念もない、ありのままの彼女の表情。
——かつて、その笑顔が彼を救った。
サイラスの足取りが次第に緩む。
琥珀色の瞳が淡い灯火を映しながらも、そこには消えない影が落ちていた。
右手がゆっくりと動き、左腕を強く握りしめる。
指先が袖に食い込み、まるでそうすることで胸の痛みを少しでも和らげようとするかのように。
分かっていたはずだ。
彼女をエドリックに会わせたのは、自分の計画通り。
彼女がここへ来たのは、王太子の庇護を求めるためであり、自分のためではない。
この結果は、最初から分かりきっていたことだった。
——それなのに。
いざその瞬間を目の当たりにしたとき、彼は気づいてしまった。
自分が、どうしようもなく「受け入れられない」と思っていることに。
その笑顔が、自分に向けられたものではないという事実を。
彼女が、自分以上に頼れる存在を見つけたという事実を。
自分が、彼女の物語のほんの一幕に過ぎない「通りすがり」だったということを。
「……くだらない。」
サイラスは自嘲気味に笑う。
それでも、瞳の奥に滲んだ苦さは、どうしても隠せなかった。
最初から分かっていた。
この結末も、彼女が選ぶ道も、全て予測していた。
——なのに、どうしてこんなに痛い?
足音が静かに夜の闇へと消えていく。
彼は振り返らなかった。




