(51) 琥珀の波紋
大広間の喧騒が、まるで波が引くように遠ざかる。
拍手の音、杯が触れ合う音、ささやき交わす貴族たちの声——
それら全てが、かすかに聞こえるだけになった。
エレの耳に響くのは、ただ一つ。
自分の心臓の音。
そして——
目の前の男の、紅い瞳がわずかに揺れたのを、確かに見た。
エドリック・ノヴァルディア。
彼は、一瞬、ほんの僅かに戸惑ったように見えた。
何を言うべきか、どう応じるべきか。
その答えを探しているかのように、沈黙が落ちる。
しかし、彼はすぐに静かに息を整え、表情を崩すことなく、ついに口を開いた。
「……久しぶりだな。」
エレの瞳が、かすかに震える。
心臓が、一瞬、強く跳ねた。
——覚えている?
彼は、私を覚えているの?
まるで信じられない奇跡を目の当たりにしたかのように、彼女の瞳には確かな光が宿る。
しかし——
クスッ。
低く、柔らかな笑い声が響いた。
白金の髪の男が、楽しげに微笑む。
「エレ嬢の舞は、実に見事でした。」
まるでその空気を壊さぬよう、穏やかな口調で語る。
ラファエット・エーベルラン。
エレは一瞬で冷静さを取り戻し、完璧な微笑を浮かべた。
「恐れ入ります。」
優雅に返すが、ラファエットの眼差しには、どこか探るような色が滲む。
そのやり取りを、カミラが微笑みながら見届ける。
「確かに素晴らしい舞でしたね。帝都でも、なかなかお目にかかれないほどの……。」
そう言いながら、カミラの視線はさりげなくエドリックへと向かう。
そして、何気ない口調で問いかけた。
「ですが——私が気になったのは、殿下が先ほど仰った言葉。」
杯を軽く傾けながら、意味深に微笑む。
「『久しぶり』——?」
彼女はあくまで軽やかに、しかし、貴族の誰もが気にせずにはいられない問いを放つ。
「まさか、お二人は以前お会いになったことが?」
エレの指先が、かすかに強張った。
——この言葉の重みは、計り知れない。
この場にいる貴族たちは、誰もが聡明で、疑問を見逃すことはない。
エドリックは視線をカミラへ向け、少しの間だけ、沈黙を挟んだ。
だが、その沈黙は長くは続かず——
やがて、彼は穏やかな微笑を浮かべる。
「……一言では語れないな。」
そう言って、さらりとかわす。
だが、それは否定ではない。
「だが、確かに——少しばかり縁がある。」
その言葉に、エレの心が再び大きく波打った。
それは、単なる社交辞令ではない。
それは、この場の誰もが聞き取れる形で、彼が彼女を知っていると明言した瞬間だった。
エレは、その意味をすぐに理解した。
この賭け——
少なくとも、第一歩は勝ち取った。
エドリックの微笑は、相変わらず柔和で、皇族特有の冷静さを失わない。
しかし、次に彼が口にした言葉は——
「エレノア嬢。貴女の境遇を、心からお察しします。」
その声は、無機質な慰めではなく、確かな理解を含んでいた。
「もし、何か支援が必要なら——いずれ、詳しく話を聞こう。」
エレは、一瞬、息をのむ。
次の瞬間——
彼女の唇に、小さな笑みが浮かんだ。
それは、長い間忘れていた、本当の笑顔。
安堵と、確かな希望の灯る表情だった。
「ありがとうございます、エドリック殿下。」
彼女は優雅に礼を取り、そっと視線を伏せる。
その動作の刹那——
琥珀のピアスが、光を受けて淡く煌めいた。
それを見たエドリックの眼が、一瞬だけ鋭く細められる。
——琥珀。
彼の紅の瞳が、その色を捉える。
帝国において、琥珀が持つ意味。
王権の象徴。
それを、今この場で堂々と身につける理由とは——?
彼の頭の中に、一つの名前が浮かんだ。
「サイラス。」
その瞬間、彼の表情から微笑が消えた。
——これは、お前の仕掛けた盤か?
しかし、彼はその言葉を口にしなかった。
代わりに、わずかに唇の端を上げる。
まるで何も気にしていないかのような、平然とした笑み。
だが、彼の指先は、静かに杯の縁をなぞっていた。
その杯の中で、紅い酒が波を打つ。
琥珀の輝きと、紅の液体が交錯する。
それはまるで、言葉にならない象徴のように——静かに揺らめいていた。
カミラは静かに目を細め、手にした杯を持ち上げかけたまま、ふと動きを止めた。
——違和感がある。
宴会場は依然として華やかに賑わい、貴族たちは談笑しながら杯を交わし、優雅な音楽が流れている。
すべてが完璧なまでに洗練され、何の不自然さもない——
だが、何かが決定的におかしい。
カミラの視線は、無意識のうちにある一点へと向かっていた。
エドリック。
彼の紅い瞳が、あまりにも長く、舞姫を捉えて離さない。
それは、予想を超えた長さだった。
彼の表情は依然として穏やかで、視線にも明確な動揺は見られない。
——だが、それは「通常通り」の目線ではない。
エドリック・ノヴァルディアは、生来の慎重さと理性を持ち合わせた男だ。
誰であろうと、たとえ彼に興味を示す令嬢であろうと、決して容易く心の距離を縮めることはない。
常に冷静に、一定の距離を保ち、決して深入りしない。
それが、彼のやり方だった。
しかし——
今の彼は、明らかに違う。
カミラは杯を軽く傾け、琥珀色の液体が揺れるのを眺めながら、脳裏で素早く思考を巡らせた。
——王太子妃の座が揺らぎかねない。
彼女はゆっくりと視線を下げ、舞姫の耳元に目を向けた。
琥珀のピアス。
最初は取るに足らない些細な装飾品にすぎないと思っていた。
しかし今、状況が変わった。
琥珀。
帝国では、それは王権と純血の象徴。
皇族が不用意に他者へ授けることはなく、その意味は非常に重い。
カミラは優雅な微笑を崩さぬまま、しかし、意識の奥で鋭く警鐘を鳴らした。
この舞姫——
いったい何者なのか?
彼女の存在は何を意味する?
そして——彼女は、なぜ琥珀を身につけてここにいる?
カミラはもう一度、エドリックを見た。
——彼の表情は変わらない。
だが、彼の心境は明らかに揺らいでいる。
それは、彼がこの女を「特別視していない」と言い切るには、あまりにも長すぎる視線の滞在だった。
このまま放っておけば、いずれ何かが変わる。
カミラは静かに目を伏せ、杯の縁にそっと指を滑らせた。
そして、決意する。
——この女は、排除すべき存在かもしれない。




