(50) 沈黙の暗流
カミラは手にした杯を揺らしながら、舞台上のエレを見つめる。
彼女の唇に浮かぶのは、意味深な微笑。
「この舞姫、カイン様が連れてきたんですよね?」
カミラの声は軽やかだが、その裏には探るような響きが含まれていた。
「同行者だと言っていましたけれど……どう見ても、それ以上の関係にしか思えませんわ。」
エドリックの仕草が、僅かに止まる。
深紅の瞳が興味深げに揺らぎ、カミラを見やる。
「——彼が連れてきた?」
低く反芻するように呟かれたその言葉には、微かな驚きが滲む。
「ええ、」
カミラは微笑を深め、杯の縁を軽くなぞる。
「旅のついでだと言っていましたけれど……これほど目を引く方を‘ついで’で連れてくるとは思えませんわ。」
エドリックは眉を寄せ、大広間を見渡した。
だが——彼の姿はどこにもない。
この場にいない?
エドリックの心に、違和感が走る。
カイン——いや、サイラスが、この場を避ける?
それは、彼の性格からして不自然だった。
しかし、その疑問が口をつく前に——
「フフ……」
隣にいたラファエットが、含み笑いを漏らした。
「カイン様のことなら、先ほどまで見かけましたが……どうやら、我々を避けているようですね?」
エドリックの視線が鋭くなる。
今の一言は、ただの独り言ではない。
ラファエット・エーベルランは、決して無意味な発言をしない男。
彼がカインの名を出したということは——
‘気づいている’ ということだ。
エドリックの思考が、素早く回転する。
彼の視線が舞台へ向かい、そこで——
深銀の髪と、氷のような青い瞳を持つ少女と、
耳元で揺れる琥珀のピアスが目に入った。
瞳孔が、僅かに収縮する。
琥珀石——。
この石の意味を、エドリックはよく知っている。
琥珀は、王権の象徴。
皇族以外の者には、決して与えられぬ色。
そして——
この皇族の象徴を、唯一「外」に持ち出した男がいた。
サイラス・ノヴァルディア。
エドリックの指先が、静かに杯を叩く。
深紅の瞳が、細められる。
サイラスの瞳は、琥珀色。
帝国の皇族であれば誰でも知っている特徴だ。
彼は皇族として育てられなかった。
だが、その存在自体が、皇族の証明であった。
——ならば、この舞姫の存在は何だ?
ラファエットの試すような視線が、静かに彼を見つめる。
‘気づいたか?’
エドリックの瞳が、冷たく光る。
‘貴様は、どこまで知っている?’
二人の視線が交差し、一瞬の沈黙が流れる。
ラファエットは微笑みながら、ゆるりと杯を口に運ぶ。
彼は知っている。
だが、それをどう使うかは、まだ決めていない。
エドリックの思考は、次の問題へと移る。
ラファエットではない。
この状況を作り出したのは、カイン——サイラスだ。
彼の目的は何だ?
亡国の姫を、帝国の貴族社会に引き入れる?
それだけではない。
彼女に**‘琥珀石’**を持たせ、この場に送り込んだ?
これは偶然か?
それとも……
計算ずくの‘賭け’か?
エドリックは、ゆっくりと息を吐く。
カイン——いや、サイラスは、これまで一度も政治の表舞台に出たことはなかった。
常に影に徹し、情報と謀略の世界に身を置き、どの勢力にも深く関わらない立場を貫いてきた。
だが——
これは、彼のやり方ではない。
これほどリスクの高い動きをする男ではない。
なのに、今夜は違う。
エドリックは、じっと杯を見つめる。
これは単なる‘護衛’ではない。
これは、何かを仕掛けるための布石。
いや——
これは、**‘賭け’**だ。
エドリックは、静かに舞台上のエレを見つめる。
「……サイラス、お前、今回は随分と大胆な手を打ったな。」
彼は低く呟く。
深紅の瞳が、燭火の下でさらに深まる。
これが、どう転ぶか。
その結末を、見極める必要がある。
エレはゆっくりと身を回し、旋律に導かれるまま、最後の動作へと滑り込む。
銀白の長髪が流れるように揺れ、衣装の裾が優雅な弧を描く。
氷のように透き通る青い瞳が、燭火と吊り燭台の光を映し、ひときわ鮮やかに煌めいていた。
——彼が見ている。
エドリックの紅の瞳が、確かに自分を捉えている。
舞台は整った。
彼の注意を引くこと、それがエレの狙いだった。
その目的は果たされたはずだ。
なのに、何故か胸の奥に微かな不安が広がる——
彼女の視線は無意識のうちに動き、観衆の中に"ある人物"を探していた。
青と黒の装い。
彼がいつも纏っていた、どこか気怠げな雰囲気。
そして、何よりも——あの琥珀色の瞳。
……いない。
エレの胸が、瞬間、重く沈んだ。
つい先ほどまでいたはずの場所に、その姿はなかった。
彼女の目が大広間を彷徨う。
まるで吸い寄せられるように、カインを求めてしまう自分に気づく。
だが、いくら探しても——彼の姿は、どこにもない。
どこへ行ったの?
心の中に広がる、奇妙な空虚感。
最後の音符が落ちる。
拍手の音が大広間に響き渡った。
エレはふっと息を整え、迷いを振り払うように優雅に一礼し、完璧な幕引きを見せた。
そう、たとえ心に疑問があろうとも、この舞台に立った以上、最後まで演じ切る。
彼女は顔を上げる。
そのまま、足を踏み出す。
エドリックの元へと。
衣装の裾が、歩調に合わせてそっと揺れる。
この行動は、大胆であり、無謀でもあった。
舞姫の立場で、王太子へと直接歩み寄ることは、本来ならば許されるものではない。
だが、もう躊躇う余地などなかった。
彼女は、賭けるしかない。
この一歩に——全てを。
エドリックの前に立ち、ゆっくりと優雅に一礼する。
顔を上げ、真正面から、紅の瞳を見つめた。
運命が、今、交錯する——。