(5) 月光の下で
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夜風が湿った空気を運んでくる。
まるで、近づく嵐を予感させるように——。
エレの両手は粗い麻縄で後ろ手に縛られ、背中はギシギシと軋む木製の椅子に押しつけられていた。
彼女はゆっくりと目を開け、素早く周囲を見渡す。
そこは、廃墟と化した工房だった。
ひび割れた壁、漂うカビと錆びた鉄の臭い——。
埃まみれの床の向こうには、同じく縛られたリタの姿があった。
彼女の唇の端には細い血の筋が滲んでいる。
きっと、抵抗した時に殴られたのだろう。
意識はまだ戻っていないようだった。
「まったく……扱いづらいガキどもだな。」
低く、苛立ち混じりの声が響いた。
エレが視線を向けると、工房の中央に一人の大柄な男が立っていた。
頬には深い刀傷の跡。
手には、一振りの短剣。
それを指先で弄びながら、男はニヤリと笑う。
「おとなしく言うことを聞かねぇなら……少し大人しくさせるしかねぇよなぁ?」
いやらしく舌なめずりをしながら、男の視線がエレの体を上から下へと這う。
「安心しろよ。明日の朝には、お前らの"新しいご主人様"が決まるんだからよ。」
——売られる。
エレの背筋に、冷たい悪寒が走った。
エレの胸が、ぎゅっと縮み上がる。
だが、それでも必死に平静を保った。
——まだ、大丈夫。
この連中は、すぐに手を下すつもりはない。
なぜなら、"商品" としての価値がまだあるから。
つまり、まだ時間を稼げる。
逃げる手段を探すか——あるいは、予想外の何か が起こるのを待つか。
エレはゆっくりと息を吸い込み、できるだけ落ち着いた声で言った。
「……本当に、私たちを売れると思ってるの?」
刀傷の男が、一瞬、訝しげに目を細めた。
だが、すぐに鼻で笑い、冷たく言い放つ。
「ハッ、そんなの心配する必要ねぇよ。ブレストの黒市には、買い手はいくらでもいる。」
「でも……」
エレはゆっくりと顔を上げた。
暗闇の中で、青い瞳が淡く光を帯びる。
「この街の支配者は、それを許すのかしら?」
男の眉がぴくりと動く。
「……何が言いたい?」
不機嫌そうな声音に、ほんの少しの警戒心が滲む。
「貴族たちは、あなたたちのような連中のことなんて気にしない?」
エレは、それ以上何も言わなかった。
ただ黙って男を見つめる。
だが、その沈黙が逆に、刀傷の男に得体の知れない不安を抱かせた。
——そして、その時。
彼は気づいていなかった。
闇に溶け込む夜色の中で、琥珀色の瞳 が静かにこの場を見つめていることに——。
◆ ◆ ◆
夜の帳が降りる中、ブレストの影が静かに蠢いていた。
サイラスは、低い鐘楼の上から廃工房を見下ろしていた。
そこは、黒牙のアジトのひとつ。
そして今夜、彼が狩るべき獲物が潜む場所——。
「……まったく、バカどもが。」
気怠げに笑いながら、サイラスは小さく呟いた。
その声音には、どこか冷ややかな侮蔑が滲んでいる。
本来、彼はただエレの動きを見守っているだけだった。
だが、まさかこんな愚か者が、"彼のもの" に手を出すとは——。
「カイン様、準備は整いました。いつでも動けます。」
傍らに立つ副官が、低く報告する。
サイラスはわずかに首を傾け、静かに副官を一瞥した。
「領主府の守備隊に知らせておけ。明日の朝、"後始末"をさせる。
……だが今夜、この場所は俺が片をつける。」
副官は無言で頷き、その場から音もなく消えた。
夜風が吹き抜ける。
サイラスは微かに目を細めながら、じっと廃工房を見下ろした。
指先がそっと左耳の月長石のピアスをなぞる。
淡い光に照らされた月長石は、青紫色の冷たい輝きを放っていた。
彼の瞳に、一瞬、冷徹な光が宿る。
「……随分と度胸がある連中だな。」
くつりと喉を鳴らし、サイラスは笑う。
だが、その笑みには、一片の温かみもなかった。
——ならば、それ相応の代償を払ってもらおう。
夜が更けるにつれ、ブレストの裏路地はまるで獲物を狙う獣のように、静かに息を潜めていた。
廃工房の中、火の灯った松明がゆらゆらと揺れ、黒牙 の男たちが思い思いにたむろしていた。
今夜の「獲物」について、酒を飲み交わしながら談笑している。
傷痕のある男が、木製のテーブルに寄りかかりながら酒壺を片手に持ち、余裕の笑みを浮かべる。
「明日の朝になれば、買い手が来る……今回の品は上物だ。相場の数倍にはなるだろうぜ。」
「だが、あの小娘……なかなか気が強ぇな。短剣を抜いて俺たちを傷つけようとしやがった。」
男のひとりが唾を吐き捨て、不満げに呟く。
「このまま大人しくさせとくか? 一発くらい礼儀ってもんを教えてやろうぜ。」
「余計なことはするな。」
傷痕の男が軽く眉をひそめた。
「こいつらは貴族向けの品だ。傷モノなんざ、買い手の機嫌を損ねるだけだ。」
その言葉に、男たちは下卑た笑いを浮かべ、また酒をあおる。
まるで、今夜の獲物を手に入れたことを祝うかのように。
——だが。
彼らは気づいていなかった。
闇の奥から、冷たく鋭い視線が、じっとこちらを見据えていることに。
「……愚か者どもが。」
低く呟かれた声が、夜の静寂に溶ける。
次の瞬間——。
空を裂く音が、ひっそりと夜を貫いた。
一陣の黒い影が、音もなく闇の中から舞い降りる。
黒牙の見張りのひとりが、門の前で大きく欠伸をしながら、壁にもたれかかっていた。
「……ったく、退屈だな。こんな見張りなんて、さっさと終わらねぇもんか……」
——その言葉が最後だった。
突如、暗闇から伸びた一つの手が、彼の口を強く塞ぐ。
驚愕する暇もなく、影は素早く彼を闇の奥へと引きずり込んだ——!
次の瞬間、ボキッ という鈍い音が響き、見張りは完全に動かなくなった。
工房の中では、酒を飲んでいた黒牙の連中が、微かに異変を察知した。
火の揺らめく光の中、誰かがぼそりと呟く。
「……今の音、なんだ?」
「ネズミか?」
数人が立ち上がり、警戒しながら門の方へと向かう。
——だが、その瞬間だった。
「ドンッ!!」
轟音と共に、扉が勢いよく蹴破られた——!
突風が吹き込み、室内の空気が一瞬にして張り詰める。
「なっ——?」
動揺する男たちの前に、ひとつの影が音もなく滑り込む。
月明かりに照らされ、手に握られた刃が淡く鈍く光る。
その刹那——。
冷たい閃光が空を裂き、影が舞うように動く。
数人の男たちが、反応する間もなく地面に崩れ落ちた。
全ては、一瞬の出来事だった。
——誰一人、理解する暇すらなかった。
「くそっ……! 一体誰だ——!」
傷痕の男が怒りに任せて立ち上がる。
だが、その叫びは途中で途切れた。
彼の視線が、ひとつの影と交差する。
燃えるような琥珀色の瞳が、夜の闇の中で静かに光を帯びていた。
——カイン様。
黒牙の男たちは、誰もが息を呑んだ。
酒の匂いが漂っていた空間は、一瞬にして冷たい沈黙に包まれる。