(46) 舞踏会の序幕
サイラスは邸宅の玄関先に立ち、袖口を整えながら、ふと視線を巡らせる。
そして——
金色の輝きを宿した琥珀のピアス。
エレの耳元で揺れるその宝石に、サイラスの琥珀色の瞳が一瞬だけ鋭く細められた。
彼の眉が、わずかに寄る。
「……そのピアスで行くつもりか?」
普段と変わらぬ気だるげな声音。
しかし、その奥には確かな探るような響きが混じっていた。
エレは静かに耳飾りを指先でなぞる。
サイラスの目を避けることなく、まっすぐに見返した。
「何か問題でも?」
サイラスの視線がさらに深くなる。
そして、ため息をひとつ落とした。
「お前も分かっているはずだろう?」
「琥珀はノヴァルディア帝国において、どれほど特別な意味を持つか。
——それをつけていけば、余計な誤解を招くことになるぞ。」
それでも、エレは迷わなかった。
「これは私の賭けよ。」
揺るぎない声音でそう告げる。
「王太子の目に留まらなければ、私は彼に近づくことすらできない。」
サイラスは眉をわずかに上げる。
「……つまり、これを使って彼の興味を引こうというわけか?」
エレは小さく頷く。
否定はしない。
サイラスは彼女をじっと見つめると、わずかに目を細め、低く問うた。
「それで……お前は本当に、これが得策だと確信しているのか?」
その声は淡々としていたが、奥底に隠された何かを読み取ろうとしているようだった。
「そもそも、会う機会すらなければ何も始まらないでしょう?」
エレは落ち着いたまま、しかし確かな意志を持って答えた。
サイラスは短く息を吐く。
——本当に頑固な女だ。
彼女の決意が揺るがないことは、最初から分かっていた。
「……好きにしろ。」
肩をすくめ、気怠げな調子を取り戻しながら、半歩身を引く。
「どうせ俺の言うことなんて聞かないんだろ?」
エレは薄く微笑んだ。
「少なくとも、その理解は正しいわね。」
その時、彼女は初めてサイラスの装いを意識した。
深い藍と黒を基調とした、細部まで仕立ての行き届いた貴族の正装。
余計な華美さはないが、それでもどこか威厳を感じさせるデザイン。
襟元には控えめな銀細工の装飾が施され、整えられた短い赤髪が、彼に普段とは違う洗練された雰囲気を与えていた。
しかし——
エレの視線が自然と吸い寄せられたのは、やはり彼の左耳。
闇色の衣装の中で、ひときわ目を引く一粒の月長石。
まるで夜空に浮かぶ月の光のように、淡い青白い輝きを放っていた。
サイラスはそんな彼女の視線に気づくと、口元を軽く歪める。
「どうした?」
「俺の貴族らしい姿に見惚れたか?」
エレは冷静に視線を戻し、淡々と返す。
「ただ……そのピアスのほうが、あなたの正装よりもずっと目を引くと思っただけよ。」
サイラスは楽しげに目を細めると、無言で左耳に触れる。
指先が、月長石の滑らかな表面をゆっくりと撫でる。
それは、まるで無意識の仕草のようだった。
「行くぞ。」
短くそう告げると、彼はもう振り返らず、歩を進める。
エレは彼の背中を見つめ、ゆっくりと瞬きをする。
心の奥に、言葉にならない感情がわずかに波を立てた。
——今夜、何が起こるのか。
その答えを知るには、まだ時間が必要だった。
◆ ◆ ◆
城の中心に位置する華やかな舞踏会場は、まるで輝く宮殿のように燭光と吊り燭台の煌めきを放ち、貴族たちは優雅に談笑しながら庭園や回廊を行き交っている。
——その社交の場に、一組の男女が足を踏み入れた瞬間、会場の視線が自然と彼らへと向けられた。
銀色の衣装に身を包んだ少女と、夜のように深い青と黒の装いの青年。
エレは静かに歩を進める。
彼女の衣装は柔らかな銀の光を纏い、歩くたびに裾がゆるやかに揺れる。
帝国貴族たちの華美な装いと比べれば控えめではあるものの、だからこそ目を引いた。
この場にいる誰とも異なる雰囲気を纏っていたから。
その隣を歩くサイラスは、深い青と黒の貴族装束を纏い、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
彼の左耳に揺れる月長石のピアスは、夜空に浮かぶ星のように柔らかな輝きを放ち、気品を添えている。
エレはふと感じた——
周囲の視線が、二人に向けられていることを。
その中には、興味、探るような視線、そして驚きを隠せない者たちもいた。
特に貴族の夫人や令嬢たちの何人かは、サイラスの姿を見て目を見開いていた。
——まるで「彼がここにいるはずがない」とでも言いたげに。
彼はもともと、社交界の場に積極的に顔を出すような人物ではなかった。
そんな周囲の反応を感じつつ、エレはふっと小さく笑みを浮かべた。
「……意外と人気者なのね。」
隣で歩くサイラスに、軽くからかうように囁く。
「まあ、こういう場に顔を出すのは久しぶりだからな。」
彼は気だるげに肩をすくめつつ、鋭い琥珀色の瞳で会場内をさりげなく見渡していた。
まるで何かを確認しているかのように——
そんな中、一つの馴染み深い声が響いた。
「カイン様、ようやくお見えになりましたか。」
エレとサイラスが声の主へと視線を向ける。
そこに立っていたのは、深紅の衣装を纏った女性。
カミラ・ロイゼル侯爵令嬢。
完璧に整えられた金髪が白く長い首筋を露わにし、彼女の優雅な美しさを一層際立たせている。
彼女の後ろには、数名の貴族令嬢たちが控えていた。
しかし、その誰よりも強い存在感を放っていたのは、やはりカミラ本人だった。
カミラは、ゆったりとした仕草でエレとサイラスの間に視線を巡らせた後、微笑みを浮かべた。
その笑みはどこか意味深なものを含んでいた。
「ふふ……私がご招待した舞姫様も、今夜の注目の的のようですね。」
エレはその言葉に軽く微笑み、まっすぐにカミラの視線を受け止めた。
「このような宴に参加させていただけるのは、光栄なことですわ。」
言葉遣いは丁寧ながらも、決して媚びた様子はない。
むしろ、その凛とした態度は、貴族の令嬢たちとは異なる輝きを持っていた。
カミラは一瞬だけ、エレを値踏みするように見つめ、やがて満足げに微笑んだ。
「きっと、皆を驚かせる素晴らしい舞を披露してくださるのでしょうね。」
「ご期待に添えるよう努めます。」
エレは静かに頷き、決して謙遜はしなかった。
カミラはそのやり取りを楽しむかのように、手にした酒杯を傾けた。
そして、その時。
彼女の目が、エレの耳元で揺れる琥珀のピアスを捉えた。
「……?」
彼女の紅い唇が、一瞬だけ僅かに動いた。
——琥珀の意味を、彼女は誰よりも理解している。
ノヴァルディア帝国において、琥珀は単なる宝石ではない。皇権の象徴であり、極めて特殊な誓約の証でもある。
皇族が琥珀を他者に贈ることは滅多になく、それが意味するのは「特別な繋がり」…… いや、「帝国が認める存在」と言っても過言ではない。
しかし、目の前の「舞姫」エレ——
カミラは微笑を崩さぬまま、目線をエレとサイラスの間にゆるりと巡らせた。
この女が、皇族と関係があるとは思えない。
だとすれば、彼女が身につけている琥珀は何を意味するのか?
もし、それが皇族から贈られたものではないとしたら——
「カイン」からの贈り物なのでは?




