表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
誓約祭

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/194

(45) 陽光の下の静寂

 屋敷を出ると、眩しい日差しが降り注いでいた。


 昼間とはいえ、すでに祭りの賑わいが広がっており、街のあちこちに人々の笑い声が響いている。

 通りには色とりどりの屋台が立ち並び、店主たちは活気に満ちた声で客を呼び込んでいた。


 そして、恋人同士や夫婦、あるいは友人同士が集まり、誓約祭の象徴である晶石のアクセサリーを選んでいる姿があった。


 エレは何気なく周囲を見渡す。

 ふと、並べられた晶石の輝きに目を奪われた。


 陽光を受けてきらめくそれらは、ひとつひとつ丁寧に加工され、どの色も美しかった。

 思わず足を止め、じっと見入ってしまう。


 ——今の私はもう王女ではない。

 けれど、こうした美しいものを目にすれば、やはり心が引かれてしまう。


「……買うのか?」

 不意に隣から聞こえた声に、エレはハッと我に返る。


 サイラスがわずかに眉を上げ、どこかからかうような口調で問いかけてきた。

 エレは軽く首を振り、何気ない口調で答える。


「ただ見ていただけよ。」


「そうか?」

 サイラスは面白そうに微笑む。


「せっかくの機会だ、祭りの雰囲気を楽しんでみるのも悪くないんじゃないか?」


 エレは彼の言葉に特に反応せず、歩みを進めようとする。

 しかし、その瞬間——

 どこからか、甘い香りがふんわりと漂ってきた。


「……?」


 気になって視線を落とすと、目の前に差し出されたのはこんがり焼かれた蜂蜜リンゴの串。

 とろりとした金色の糖蜜が表面にコーティングされ、陽の光に照らされてキラキラと輝いている。

 その香りは、何とも食欲をそそるものだった。


「……何よ、これ?」

 エレは怪訝そうにサイラスを見上げる。


 すると、彼はもう一本の串を軽く持ち上げ、口元に運びながら、何気ない調子で答えた。

「お前、さっきから屋台をチラチラ見ていただろう?」


 エレは驚いた。

 確かに、通り過ぎる際に少し視線を向けていたかもしれない。


 ——でも、そんな一瞬の仕草を見逃すなんて。


「だからって、勝手に買うなんて……。」

 僅かに疑うような目で彼を見つめると、サイラスは肩をすくめ、当然のように言った。


「長年の経験から学んだことだ。」

 彼は軽く微笑みながら、気怠げに言葉を続ける。

「祭りの屋台で、女性はこういう甘いものを好む傾向がある。」


「……自信満々ね。」

 エレは半ば呆れたように呟いたが、彼の目の前で蜂蜜リンゴの串を受け取る。

 そして、試しにひと口、そっとかじる。


 カリッ——


 外側の糖衣は薄くパリッとしていて、中のリンゴはほどよい酸味があり、甘すぎず爽やかな風味が口いっぱいに広がった。

 意外にも、味のバランスが絶妙だった。


「……悪くないわね。」

 エレは率直な感想を口にする。


「だろ?」

 サイラスは満足げに口角を上げ、蜂蜜リンゴをひと口かじった。

 その琥珀色の瞳には、どこか愉快そうな色が滲んでいた。


 二人は屋台で買った菓子を手にしながら、祭りの賑わう通りをゆっくりと進んでいく。

 昼間よりさらに人が増え、活気に満ちた声があちこちから響いていた。


 歩道はますます混み合い、歩調を速めるどころか、むしろ立ち止まらざるを得ないほどだった。


 ——少し、落ち着かない。

 エレは周囲を見回し、少しでも空いている道を探そうとする。


 しかし、その瞬間——

 腰にふと軽い感触が添えられた。


「……?」


 思わず小さく息を飲み、視線を落とすと、サイラスの手が彼女の腰に軽く触れていた。

 ほんのわずかに力を込め、自然な動作で彼女を自分のそばへと引き寄せる。


 エレは戸惑いながら、横目で彼を見た。

「……何?」


「人混みがすごいからな。」

 サイラスは何気ない口調で言う。


「お前がどこかに流されたら、わざわざ探しに行く手間がかかる。」

 その言葉に、エレは少し言い返したくなった。


 ——私は子供じゃない。勝手に心配しないでほしい。

 そう思いながらも、なぜか口からは出てこなかった。


 サイラスの手は強くはなく、それでいて離れがたい絶妙な距離感を保っている。

 妙に安心できるような、だけど簡単には振り払えないような、そんな感覚。


「……変な気分。」


 そう思いながら、エレは気持ちを誤魔化すように蜂蜜リンゴを口に運んだ。


「へえ?」


 サイラスがちらりと彼女を見て、くすっと笑う。

「素直だな。珍しくおとなしいじゃないか。」


「……!」

 エレはむっとして、思わずサイラスを睨みつけた。

「ただ、面倒だから言い返さないだけ。」


「なるほど。」

 サイラスはますます楽しげに笑う。

「ま、何にせよ……少しは気が楽になったみたいだな。」


 エレは言葉に詰まった。

 確かに、さっきまでの重たい思考から抜け出し、気がつけば目の前の祭りの光景に意識が向いていた。


 ——この男、わざとやっているのか? それともただの無神経?

 彼の真意は分からない。


 だが、一つだけ確かなのは——

 エレは今、それを深く考えたくなかった。


 サイラスはそんな彼女の表情を見て、相変わらずの余裕の笑みを浮かべる。

 そのとき、不意にエレの視線が彼の左耳に留まった。


 月長石のピアス——

 柔らかな青い光を放ち、透き通るような輝きがそこにある。


 ——不思議なほど純粋で、美しい石。

 その色は、これまで見てきたどの月長石よりも深みがあり、雜味が一切ない。


 エレは思わず口を開いた。

「……そのピアス、誰かにもらったの?」


 サイラスの足が、ほんのわずかに止まった。

 エレの問いに、一瞬だけ反応したように見えたが、すぐにいつもの調子を取り戻し、軽く耳に触れる。


「おや?」


 彼は微笑を浮かべ、のんびりとした口調で返す。

「そんなことが気になるのか?」


 エレは視線を逸らさず、静かに続けた。

「ただの興味よ。月長石は貴重だし、特にこんな純粋なものは滅多に見られない。誓約祭でも、こんな質の良いものはそうそう出回らないはず。」


 一拍の間が空く。

 サイラスは彼女の言葉を聞きながら、相変わらずの微笑を崩さない。


 しかし、エレはさらに続けた。

「……エスティリアにいた頃に、誰かからもらったの?」


 サイラスは少し目を細め、意味深な視線を彼女に向けた。

「ふーん……エレ、お前って意外と俺に興味あるんだな?」


 エレの眉がピクリと動く。

 ——この男は、どうしてこうも話を逸らそうとするのか。


「別に。ただ聞いてみただけ。」


 サイラスはエレの視線に気づきながらも、すぐには答えなかった。

 指先でピアスを弄びながら、何かを思い出すように静かに目を伏せる。


 しばらくの沈黙の後——

 彼はまるで何でもないことのように、軽く口を開いた。


「確かに、エスティリアにいた頃にもらったものだ。」


 淡々とした声音。

 そこには感傷も、特別な想いも感じられない。


 けれど、その何気なさこそが、エレの心に小さな棘を残した。


「……大切な人から?」


 試すように問いかけると、サイラスは面白そうに目を細めた。


「大切、ね……」

 彼は一度言葉を切り、ほんのわずかに唇の端を持ち上げる。


「まあ……大事だったかもしれないな。」


 エレはじっと彼の顔を見つめた。

 この男はいつもそうだ。


 本当に重要なことほど、決してはっきりとは語らない。

 さも答えの輪郭だけを見せ、核心を霧に隠すようだった。

 彼女の中で、ますます違和感が募る。


 だが、次の瞬間——

 サイラスがふっと体を寄せ、彼女の耳元に囁いた。


「そんなに気になるのか?」


 低く響く声には、微かな戯れが混じっている。

「お前も俺に月長石を贈りたいのか?」


 エレは一瞬、思考が止まった。

 しかし、すぐに反射的に一歩後ずさると、冷たい視線でサイラスを睨みつけた。


「ありえない。勘違いしないで。」


 サイラスは、そんな彼女の反応を楽しむように、喉の奥でくつくつと笑う。

 琥珀色の瞳が、ほんの一瞬、満足げに細められた。


「そうか。」


 彼は軽く肩をすくめ、特にそれ以上深追いすることなく、再び歩き出す。


 エレはしばらくその場に立ち尽くしていた。

 サイラスの背中を見つめながら、胸の奥にわずかな違和感が広がる。


 ——この男、まだ何か隠している。


 そんな確信めいた感情が、心の奥底からゆっくりと湧き上がる。

 彼女の指先は無意識に長衣の裾を握りしめていた。


 何か……何か思い出しそうなのに、指の隙間から零れ落ちていく感覚だった。


 だが、その答えを掴む前に、サイラスはすでに先を歩いていた。

 彼の背中から、もう先ほどの余裕ある笑みは消えていた。


 エレがこれ以上、何も追及してこないと確信すると、サイラスは静かに足を止める。

 ほんの一瞬、わずかに手が動き——


 指先が無意識に袖口へ伸び、左腕をさするように触れたことに。


 ——彼女は、本当に何も覚えていないのか。


 わずかに伏せられた瞳が、静かに疼く左目を覆う。

 左腕に残る痛みとともに、忘れ去られた記憶の影が、彼を静かに蝕んでいた。


 これは、彼が背負い続ける呪い。


 そして——

 彼が選び、捨てたはずの過去。


 誓約祭の喧騒は続いている。

 陽光の下、色とりどりの誓約の石が輝きを放ち、道行く人々の笑顔が広がる。


 しかし——サイラスの世界だけが、ひどく静かだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ