(45) 陽光の下の静寂
屋敷を出ると、眩しい日差しが降り注いでいた。
昼間とはいえ、すでに祭りの賑わいが広がっており、街のあちこちに人々の笑い声が響いている。
通りには色とりどりの屋台が立ち並び、店主たちは活気に満ちた声で客を呼び込んでいた。
そして、恋人同士や夫婦、あるいは友人同士が集まり、誓約祭の象徴である晶石のアクセサリーを選んでいる姿があった。
エレは何気なく周囲を見渡す。
ふと、並べられた晶石の輝きに目を奪われた。
陽光を受けてきらめくそれらは、ひとつひとつ丁寧に加工され、どの色も美しかった。
思わず足を止め、じっと見入ってしまう。
——今の私はもう王女ではない。
けれど、こうした美しいものを目にすれば、やはり心が引かれてしまう。
「……買うのか?」
不意に隣から聞こえた声に、エレはハッと我に返る。
サイラスがわずかに眉を上げ、どこかからかうような口調で問いかけてきた。
エレは軽く首を振り、何気ない口調で答える。
「ただ見ていただけよ。」
「そうか?」
サイラスは面白そうに微笑む。
「せっかくの機会だ、祭りの雰囲気を楽しんでみるのも悪くないんじゃないか?」
エレは彼の言葉に特に反応せず、歩みを進めようとする。
しかし、その瞬間——
どこからか、甘い香りがふんわりと漂ってきた。
「……?」
気になって視線を落とすと、目の前に差し出されたのはこんがり焼かれた蜂蜜リンゴの串。
とろりとした金色の糖蜜が表面にコーティングされ、陽の光に照らされてキラキラと輝いている。
その香りは、何とも食欲をそそるものだった。
「……何よ、これ?」
エレは怪訝そうにサイラスを見上げる。
すると、彼はもう一本の串を軽く持ち上げ、口元に運びながら、何気ない調子で答えた。
「お前、さっきから屋台をチラチラ見ていただろう?」
エレは驚いた。
確かに、通り過ぎる際に少し視線を向けていたかもしれない。
——でも、そんな一瞬の仕草を見逃すなんて。
「だからって、勝手に買うなんて……。」
僅かに疑うような目で彼を見つめると、サイラスは肩をすくめ、当然のように言った。
「長年の経験から学んだことだ。」
彼は軽く微笑みながら、気怠げに言葉を続ける。
「祭りの屋台で、女性はこういう甘いものを好む傾向がある。」
「……自信満々ね。」
エレは半ば呆れたように呟いたが、彼の目の前で蜂蜜リンゴの串を受け取る。
そして、試しにひと口、そっとかじる。
カリッ——
外側の糖衣は薄くパリッとしていて、中のリンゴはほどよい酸味があり、甘すぎず爽やかな風味が口いっぱいに広がった。
意外にも、味のバランスが絶妙だった。
「……悪くないわね。」
エレは率直な感想を口にする。
「だろ?」
サイラスは満足げに口角を上げ、蜂蜜リンゴをひと口かじった。
その琥珀色の瞳には、どこか愉快そうな色が滲んでいた。
二人は屋台で買った菓子を手にしながら、祭りの賑わう通りをゆっくりと進んでいく。
昼間よりさらに人が増え、活気に満ちた声があちこちから響いていた。
歩道はますます混み合い、歩調を速めるどころか、むしろ立ち止まらざるを得ないほどだった。
——少し、落ち着かない。
エレは周囲を見回し、少しでも空いている道を探そうとする。
しかし、その瞬間——
腰にふと軽い感触が添えられた。
「……?」
思わず小さく息を飲み、視線を落とすと、サイラスの手が彼女の腰に軽く触れていた。
ほんのわずかに力を込め、自然な動作で彼女を自分のそばへと引き寄せる。
エレは戸惑いながら、横目で彼を見た。
「……何?」
「人混みがすごいからな。」
サイラスは何気ない口調で言う。
「お前がどこかに流されたら、わざわざ探しに行く手間がかかる。」
その言葉に、エレは少し言い返したくなった。
——私は子供じゃない。勝手に心配しないでほしい。
そう思いながらも、なぜか口からは出てこなかった。
サイラスの手は強くはなく、それでいて離れがたい絶妙な距離感を保っている。
妙に安心できるような、だけど簡単には振り払えないような、そんな感覚。
「……変な気分。」
そう思いながら、エレは気持ちを誤魔化すように蜂蜜リンゴを口に運んだ。
「へえ?」
サイラスがちらりと彼女を見て、くすっと笑う。
「素直だな。珍しくおとなしいじゃないか。」
「……!」
エレはむっとして、思わずサイラスを睨みつけた。
「ただ、面倒だから言い返さないだけ。」
「なるほど。」
サイラスはますます楽しげに笑う。
「ま、何にせよ……少しは気が楽になったみたいだな。」
エレは言葉に詰まった。
確かに、さっきまでの重たい思考から抜け出し、気がつけば目の前の祭りの光景に意識が向いていた。
——この男、わざとやっているのか? それともただの無神経?
彼の真意は分からない。
だが、一つだけ確かなのは——
エレは今、それを深く考えたくなかった。
サイラスはそんな彼女の表情を見て、相変わらずの余裕の笑みを浮かべる。
そのとき、不意にエレの視線が彼の左耳に留まった。
月長石のピアス——
柔らかな青い光を放ち、透き通るような輝きがそこにある。
——不思議なほど純粋で、美しい石。
その色は、これまで見てきたどの月長石よりも深みがあり、雜味が一切ない。
エレは思わず口を開いた。
「……そのピアス、誰かにもらったの?」
サイラスの足が、ほんのわずかに止まった。
エレの問いに、一瞬だけ反応したように見えたが、すぐにいつもの調子を取り戻し、軽く耳に触れる。
「おや?」
彼は微笑を浮かべ、のんびりとした口調で返す。
「そんなことが気になるのか?」
エレは視線を逸らさず、静かに続けた。
「ただの興味よ。月長石は貴重だし、特にこんな純粋なものは滅多に見られない。誓約祭でも、こんな質の良いものはそうそう出回らないはず。」
一拍の間が空く。
サイラスは彼女の言葉を聞きながら、相変わらずの微笑を崩さない。
しかし、エレはさらに続けた。
「……エスティリアにいた頃に、誰かからもらったの?」
サイラスは少し目を細め、意味深な視線を彼女に向けた。
「ふーん……エレ、お前って意外と俺に興味あるんだな?」
エレの眉がピクリと動く。
——この男は、どうしてこうも話を逸らそうとするのか。
「別に。ただ聞いてみただけ。」
サイラスはエレの視線に気づきながらも、すぐには答えなかった。
指先でピアスを弄びながら、何かを思い出すように静かに目を伏せる。
しばらくの沈黙の後——
彼はまるで何でもないことのように、軽く口を開いた。
「確かに、エスティリアにいた頃にもらったものだ。」
淡々とした声音。
そこには感傷も、特別な想いも感じられない。
けれど、その何気なさこそが、エレの心に小さな棘を残した。
「……大切な人から?」
試すように問いかけると、サイラスは面白そうに目を細めた。
「大切、ね……」
彼は一度言葉を切り、ほんのわずかに唇の端を持ち上げる。
「まあ……大事だったかもしれないな。」
エレはじっと彼の顔を見つめた。
この男はいつもそうだ。
本当に重要なことほど、決してはっきりとは語らない。
さも答えの輪郭だけを見せ、核心を霧に隠すようだった。
彼女の中で、ますます違和感が募る。
だが、次の瞬間——
サイラスがふっと体を寄せ、彼女の耳元に囁いた。
「そんなに気になるのか?」
低く響く声には、微かな戯れが混じっている。
「お前も俺に月長石を贈りたいのか?」
エレは一瞬、思考が止まった。
しかし、すぐに反射的に一歩後ずさると、冷たい視線でサイラスを睨みつけた。
「ありえない。勘違いしないで。」
サイラスは、そんな彼女の反応を楽しむように、喉の奥でくつくつと笑う。
琥珀色の瞳が、ほんの一瞬、満足げに細められた。
「そうか。」
彼は軽く肩をすくめ、特にそれ以上深追いすることなく、再び歩き出す。
エレはしばらくその場に立ち尽くしていた。
サイラスの背中を見つめながら、胸の奥にわずかな違和感が広がる。
——この男、まだ何か隠している。
そんな確信めいた感情が、心の奥底からゆっくりと湧き上がる。
彼女の指先は無意識に長衣の裾を握りしめていた。
何か……何か思い出しそうなのに、指の隙間から零れ落ちていく感覚だった。
だが、その答えを掴む前に、サイラスはすでに先を歩いていた。
彼の背中から、もう先ほどの余裕ある笑みは消えていた。
エレがこれ以上、何も追及してこないと確信すると、サイラスは静かに足を止める。
ほんの一瞬、わずかに手が動き——
指先が無意識に袖口へ伸び、左腕をさするように触れたことに。
——彼女は、本当に何も覚えていないのか。
わずかに伏せられた瞳が、静かに疼く左目を覆う。
左腕に残る痛みとともに、忘れ去られた記憶の影が、彼を静かに蝕んでいた。
これは、彼が背負い続ける呪い。
そして——
彼が選び、捨てたはずの過去。
誓約祭の喧騒は続いている。
陽光の下、色とりどりの誓約の石が輝きを放ち、道行く人々の笑顔が広がる。
しかし——サイラスの世界だけが、ひどく静かだった。




