(4) 突如現れる危機
夜の帳が下りても、ブレストの市場区は依然として灯火が瞬き、賑わいを見せていた。
威勢のいい呼び声や商人たちの値引き交渉が入り混じり、活気に満ちた空気が漂う。
この辺境の都市は昔から商隊の中継地点として栄えており、帝国各地から集まる商人たちによって、他の街よりもずっと活発な雰囲気を醸し出していた。
エレとリタは、人混みを縫うように歩きながら、石畳の道を進んでいく。
「……すごい活気ね。」
リタが小さく呟きながら、警戒するように周囲を見渡す。
「さすがブレストの市場区。エステリアとはまるで雰囲気が違うわね……」
しかし、エレは何も答えなかった。
なぜなら、彼女はリタ以上にこの街の本質を理解していたからだ。
ブレストの華やかさは、あくまで表向きのものに過ぎない。
本当の混沌は、目に見えない場所にこそ潜んでいる——。
市場区を越えて北へ進めば、貴族の屋敷や城が建ち並ぶ高台があり、そこは権力と秩序の象徴である。
一方、南へ向かえば貧民街や工房街が広がり、この街で最も混沌とした区域に辿り着くことになる。
それぞれの区画には、それぞれのルールが存在する。
表向きは守備隊が秩序を保っているものの、闇の取引が絶えたことは一度もなかった。
「ここは守備が手薄ね。一部の場所なんて、巡回の兵士すら見当たらないわ。」
エレは警戒心を滲ませた声でそう呟くと、低く続けた。
「できるだけ長居はしないほうがいいわ。」
リタは小さく頷いたが、それでも不安そうに尋ねる。
「……本当に信頼できる連絡役がいるの?」
「百パーセント確実とは言えない。でも、これが唯一のチャンスなの。」
エレは声を潜めながら、周囲の露店や行き交う旅人たちに視線を巡らせる。
「帝都から来た商人さえ見つかれば、王太子の側近に繋がる可能性があるわ。」
だが、その時だった。
——妙な視線を感じる。しかも、異様に重たい。
エレは何食わぬ顔でショールを少し引き上げ、そっと俯くと、低い声で囁いた。
「……リタ、気づいてる?」
リタはさりげなく体を傾け、服の襟元を直すふりをしながら背後をちらりと確認した。
そして、次の瞬間——その顔が一瞬、明らかにこわばった。
「……三人。ずっと私たちをつけてるわ。」
リタも声を潜めて応える。
エレの胸中に、冷たい重みが落ちた。
この街の市場区は、人々が行き交い活気に満ちている。だが、それでも完全に警戒を解くほどではなかった。
エレはすでに、できるだけ灯りの多い大通りを選んで歩いていた。
それにもかかわらず、後ろをつけてくる彼らの気配は消えない。
まるで普通の通行人を装っているつもりなのかもしれないが、あまりにも執拗だ。
エレは足を止めることなく、静かな声で言った。
「進路を変えましょう。もっと人が多いところへ。」
リタはすぐに察し、黙って頷いた。
二人は露店の間を縫うように進み、より広い通りへと向かう。
そこは商隊や旅人が多く、本来なら比較的安全なはずだった。
——だが、予想外の光景が目の前に広がっていた。
先ほどまで後ろについていた三人の男たちが、すでに路地の入り口で待ち構えていたのだ。
まるで、エレたちがここに来ることを見越していたかのように——。
エレの胸に、鋭い危機感が走る。
彼女はそっとリタと視線を交わした。
間違いない。あの男たちは、明らかに自分たちを狙っている——。
リタの指が緊張でこわばる。
まるで、腰の短剣を抜くべきかどうか、迷っているようだった。
一方、エレは静かに息を吸い込み、低い声で囁く。
「……路地裏へ。」
二人は即座に方向を変え、脇道へと滑り込んだ。
そこは市場区と工房区の境目にあたる場所で、入り組んだ路地が迷路のように続いている。
ここなら、普通の相手なら簡単に追いつけるはずがない。
何本か路地を抜けて大通りへ戻れば、巻くことができる——はずだった。
——だが、彼女たちはこの連中を甘く見ていた。
二本目の路地を抜け、出口を探していたその時——
「おい、どこ行くんだ?」
不意に響いた、嘲るような声。
エレは反射的に足を止めた。
狭い路地の出口には、数人の大柄な男たちが立ち塞がっていた。
そのうちの一人が腕を組み、不敵な笑みを浮かべる。
足元には折れた木片が散らばっていた。どうやら、彼らが先回りし、何かを蹴り飛ばした痕のようだ。
「こんな美人が、何をそんなに警戒するんだ?」
男はくつくつと笑いながら、ねっとりとした視線を向ける。
「なあ、別に怖がることはない。ちょっと話がしたいだけさ。」
瞬間、リタがエレの前に立ち、低く唸るように言った。
「……どけ。」
「おやおや、ずいぶん冷たいねえ。」
別の男が一歩前へ出る。
「こんな美人が、こんな場所で踊り子なんてやってるのはもったいないぜ……なあ、もっといい場所に行けば、それなりの待遇ってもんがあるだろ?」
エレの指がわずかに強張る。
爪が掌に食い込みそうになるほど、力が入っていた。
——こいつらは、ただのチンピラじゃない。
ブレストの貧民街で悪名高い、『黒牙』 の連中だ。
エレがこの街に来たのはつい最近だが、酒場の女将さんが言っていた話を思い出す。
——「黒牙は人身売買を生業にしている。特に若くて美しい女を狙うのさ。
連中は黒市で売り飛ばし、放蕩な貴族にあてがうこともあれば、別の国へと送り込むこともある……。」
エレは、胸の奥に広がる恐怖を無理やり押し殺した。
今は冷静でいなければならない——。
「……興味はないわ。」
震えのない声で、エレは言い放つ。
「道を開けて。」
「おやおや、そんなに冷たくしないでくれよ。」
男はさらに口元を歪め、愉快そうに笑う。
「俺たちは、ただ心からの誘いを——」
言葉が終わる前に、男が勢いよく手を伸ばした。
エレの手首を掴もうと——!
瞬間、リタが迷わず短剣を抜き、横薙ぎに一閃。
鋭い刃が男の袖を裂き、あと数センチで腕に届くところだった。
男の顔から、笑みが消える。
代わりに、険しく歪んだ表情が浮かんだ。
「……このクソガキが!」
「リタ!」
エレは咄嗟にリタの腕を掴む。
その間にも、男たちがじりじりと距離を詰めてくる。
もはや、交渉の余地はない。
「おとなしくしとけ。さもなくば……痛い目を見せてやるぞ。」
別の大男が冷え冷えとした声で言い放つ。
エレは息を詰め、素早く周囲を見渡した。
だが、この路地は狭すぎる。
左右にも、後ろにも、逃げ道はない。
胸の奥が、冷たい闇に飲み込まれるようだった。
——今回ばかりは、本当に逃げられない。