(38) 隠された真実
――意識がゆっくりと戻ってくる。
エレは、体がわずかに揺れていることに気づいた。
馬車の振動に合わせて揺られているような感覚だ。
頬に感じるかすかな温もり。彼女の頭は、誰かの肩にもたれていた。
安定した感触と包み込むような温かさ。
「……リタ?」
かすれた声でそう呟く。
ただし、次の瞬間、エレは異変を察した。
――違う。
この肩はリタのものではない。
もっと広く、しっかりとしていて、少女のそれとは明らかに違う。
エレの心臓が跳ね、彼女ははっと目覚め、
勢いよく身を起こして混乱したまま周囲を見渡した。
そして、目の前の人物を認識した瞬間――
エレの瞳が、かすかに揺れる。
「……カイン?」
無意識に、口をついて出た名前。
サイラス(カイン)は馬車の壁に無造作にもたれ、片手で顎を支えていた。
まるで彼女が目覚めるのを待っていたかのように、
半分目を閉じた気だるげな様子から、ふっと片目を開く。
「おや? やっと起きたか?」
淡々とした口調に、
エレはまだ状況を飲み込めずにいた。
「……リタは?」
そう問いながら、彼女は再び周囲を確認する。
「前にいる。」
「ノイッシュと一緒に座ってる。」
サイラスは、気の抜けたような調子で答えた。
エレは、思わず息を吐く。
けれど――
彼女の脳裏に、もう一つの疑問が浮かぶ。
「……アレックは?」
エレの声には、かすかに焦りが滲んでいた。
サイラスは、彼女を一瞥する。
そして、肩をすくめながら、あっさりと言った。
「心配いらない。もう大丈夫だ。」
「今は後ろで馬を走らせてる。」
エレの肩から力が抜け、ほっとした。
ただ、すぐに何かがおかしいと気づく。
窓の外を見れば、隊列はすでにばらけていた。
数日前まで騎士たちに囲まれていた馬車は、今はカインの直属の護衛だけが残っている。
エレの眉が、かすかに寄る。
「……騎士たちは?」
サイラスは気にする様子もなく答えた。
「最初からずっと同行する予定はなかった。」
「本来なら、あの日の朝には帰還しているはずだった。」
「――でもな。」
彼は、ふっと微笑んだ。
琥珀色の瞳が、馬車の灯りを反射する。
「ある人が“伏兵が来る”って言ったからな。」
「予定を一日、延ばしてやったんだよ。」
エレの指先がわずかに握られ、唇が小さく震えた。
「……つまり、あなたは私の“夢”を信じていたの?」
サイラスは、静かに微笑む。
その笑みには計算めいた余裕があった。彼はゆっくりと視線をエレに向け――
「“聖女”の予知は、たいてい現実になるものだからな。」
エレは一瞬息を詰まらせた。
「……なら、どうして迂回しなかったの?」
「あの林道を避けていれば、騎士たちは傷を負わずに済んだはず――。」
「違うな。」
サイラスは静かに遮り、声は低く落ち着いていた。
その口調には揺るぎない確信があった。
「“予知”は、避けられるものじゃない。」
「できるのは――被害を最小限に抑えることだけだ。」
彼の琥珀色の瞳が、エレを見据える。
その視線は、すべてを見通すように鋭く、冷静だった。
そして、静かに続ける。
「そうでなければ――」
「エスティリアは、滅びていない。」
心臓が、ひどく跳ねた。
エレの心臓が激しく跳ね、唇を噛んだ。
反論しようとしたが、言葉が出てこない。
指先がぎゅっと縮こまる。
「……なぜ、そんなことを知っているの?」
サイラスは一拍沈黙し、何でもないように答えた
「昔、エスティリアに滞在したことがあるからな。」
エレの眉がわずかに動く。
「……そんな話、聞いたことない。」
「ただ、聞き流しただけだ。」
サイラスは、ふっと笑った。
「興味を持たなかったのは、そっちの方だろう?」
確かに――
茶館で彼がそう言った記憶がある。
「エスティリアに“滞在した”ことがある。」
その時の口調は何気なく、エレは深く考えなかった。
女の頭は祖国の現状でいっぱいで、カインがどこで何をしていたかなんてどうでもよかった。
今は、
その言葉の重さが違う。
「“行った”ことがある」ではなく、
「“滞在した”ことがある」。
この違いが、思っていたよりも遥かに大きい。
エレの心の中に、得体の知れない違和感が広がる。
「……。」
彼女は言葉を失い、考えれば考えるほど混乱する。
その様子を見て、サイラスは小さく笑った。
「さて――。」
「俺からも一つ話しておきたいことがある。」
「……何の話?」
エレは眉をひそめると、サイラスはふっと笑う。
その笑みが消え、琥珀色の瞳が鋭く彼女を見据えた。
「――お前の力についてだ。」
彼の声は、どこか慎重な響きを帯びていた。
エレは、一瞬きょとんとした。
「……私の力?」
サイラスは馬車の内壁を軽く叩き、その音が小さく響く。
「……お前の力は、そう簡単に人前で見せるべきじゃない。」
「どうして?」
エレが思わず問い返すと、サイラスの視線が彼女を捉えた。
「この世界の“異世界の力”は――普通、子孫に受け継がれるものではない。」
「……え?」
エレの表情が、驚愕に染まる。
「もし遺伝するなら、王族はわざわざ“聖女召喚”なんてしないだろう?」
サイラスは、淡々と告げる。
「にもかかわらず、お前はこの世界の人間なのに、“聖女の力”を持っている。」
「……これは、厄介なことになるぞ。」
エレの心臓が強く跳ね、彼の言葉が脳裏に突き刺さる。
彼女はこれまで疑問に思ったことがなかった。
母が“蒼月の聖女”だったから、自分に“力”があるのは当然だと。
ただし、
それが「本来あり得ないこと」だとしたら?
エレはカインをじっと見つめた。
彼の言葉、態度、そして知識の深さ――。
「……あなた、私の母を――蒼月の聖女を、知っているの?」
サイラスの瞳が一瞬揺れ、指先が無意識に左耳へ伸びる。
月長石のピアスに触れ、青白い光が揺らめいた。
馬車の薄暗い灯りの中で、それは月光のように静かに輝いていた。
「……ああ。」
驚くほど淡々とした声に、感情は込められていないかのようだった。
それでも、彼の指尖はピアスをそっとなぞり、どこか名残惜しげで懐かしさを孕んでいた。
彼は手を引き、何事もなかったように微笑む。
「ブレストはエスティリアに近い。外交を担当するのも不思議じゃないだろ?」
その口調はいつもの軽やかさで、
まるで、それ以上の意味はないと言わんばかりだ。
エレは動きを止め、ゆっくりとカインの言葉を反芻する。
確かに、ブレスト侯爵領はエスティリアと国境を接し、貴族同士の交流は自然だ。
カインがエドムンド侯爵家の一員として外交を担うのも不自然ではない。
それでも、拭いきれない違和感が心の奥に残る。
彼の語り口はあまりにも自然すぎ、重要なことを流しているように感じた。
もし彼が本当にエスティリアの外交に関わっていたなら、自分が彼を知らないはずがない。
それなのに、記憶に彼との接点は一片も存在しない。
エレは静かに顔を上げ、カインをじっと見つめた。
彼は気怠げに馬車の壁にもたれ、何も気にしていないかのようだった。
指先が無意識に縮こまり、彼女は何も言わなかった。
疲れ果てた頭では、これ以上考える気力も湧かない。
「……わかった。」
小さく、ただそれだけを返す。
その時。
馬車の外から、ノイッシュの声が響いた。
「カイン様、まもなくロイゼルに到着します!」
エレのまつげがぴくりと震え、窓の外を見やると、遠くに城壁がぼんやりと見えた。
帝国中部の拠点、ロイゼル――彼らの旅路で避けて通れない街。
サイラスは自然に会話を終えるように軽く腕を伸ばし、
「そろそろ休めるな。城に入ったら、少し気を抜いてもいい。」
とエレに視線を向けた。
唇の端に、微かに笑みを浮かべながら。
「もっとも――」
「この先の道のりは、まだまだ楽にはならないけどな。」
琥珀色の瞳が、一瞬だけ何かを考えているように揺れた。
それを見た瞬間、エレの胸に小さな不安が広がる。
だが――
彼女は何も言わず、ゆっくりと瞼を閉じた。
ただ、静かに馬車がロイゼルの街へと向かうのを待つ。




