(33) 不信と決意
エレが部屋を出ると、廊下には朝の光が差し込み、柔らかな金色の輝きが床を照らしていた。
太陽は、まだ昇りきっていない。
出発の時間にはまだ早いが――
どうしても、この不安を拭い去ることができなかった。
静かに足を進め、サイラスの部屋の前で立ち止まる。
躊躇いが胸をよぎるが、すぐにそれを振り払い、扉を軽くノックした。
「カイン様、起きていますか?」
数秒の沈黙の後、扉がゆっくりと開かれた。
エレの視線の先に現れたのは――
寝起きのままのカインだった。
彼は無造作にシャツを羽織っているものの、
ボタンは留められておらず、引き締まった胸元が覗いている。
琥珀色のペンダントが鎖骨の上で揺れ、光を反射していた。
思わず視線を逸らし、気まずさをごまかすように顔を上げる。
……すると、彼の左耳に光るものが目に入った。
――月長石のピアス。
昼夜を問わず身につけているそれは、まるで彼にとって特別な意味を持つかのようだった。
サイラスはエレを見つめ、口元に微かな笑みを浮かべる。
「……朝っぱらから俺の部屋を訪ねるとは。まさか、何か期待してる?」
寝起きの低い声に、わずかに愉快そうな響きが混じる。
エレは、彼の軽い調子を無視し、まっすぐに言葉を切り出した。
「――私たちは、予定のルートを通るべきじゃない。」
サイラスはわずかに眉を上げる。
その瞳にはまだ少し眠気が残っているが、それでも彼は冷静だった。
「……それを伝えるために来たのか?」
彼の反応があまりに軽いことに、エレの焦りが募る。
「伏撃があるのよ!」
思わず、声が強まる。
その一言に、サイラスの瞳が微かに光を帯びた。
彼はじっとエレを見つめる。
その視線は、まるで彼女の言葉の裏にある何かを探るようだった。
「……夢の話か?」
やがて、ゆっくりと口を開く。
――否定ではない。
だが、明確に受け入れているわけでもなかった。
エレはその曖昧な反応に、唇を噛む。
「これはただの夢じゃない!」
真剣な瞳で彼を見据え、必死に訴える。
「今までにないほど、鮮明だった……!
馬の悲鳴、剣の音、そして騎士たちが次々と倒れる姿……。
もしこれが現実になったら?」
サイラスは静かに首を振る。
そして、薄く微笑みながら言った。
「……昨日は俺が雑事を片付けすぎると言ってたのに、今度は俺に迂回しろと?」
――軽い口調。
まるで、彼女の言葉に大した重みがないと言わんばかりに。
エレの胸中に、苛立ちが広がる。
「そんな話じゃないわ!」
感情が高まり、知らず知らずのうちに声が大きくなる。
「これは、皆の命に関わることなのよ!」
彼は、そんなエレの怒りを真正面から受け止めることなく、ただ静かに見つめていた。
それが――
まるで、すべての展開を予測していたかのような眼差しで。
サイラスは、じっとエレを見つめた。
まるで、彼女の言葉を天秤にかけるかのように。
その琥珀色の瞳には、微かな興味の色が浮かんでいた。
そして、彼はわずかに顎を上げ、唇に軽い笑みを浮かべる。
「……ただの夢だろう?」
さらりと言い放つ声は、あまりにも淡々としていた。
「俺がわざわざ迂回する理由なんてない。」
――軽く、無造作な拒絶。
彼はわずかに身を乗り出し、どこか愉快そうな視線を向ける。
その態度には、わずかに挑発めいた色さえ滲んでいた。
エレの心臓が、どくんと跳ねる。
焦燥と怒りが入り混じり、胸の奥でじわじわと熱を帯びていく。
必死に感情を抑えながら、それでも真剣な声で訴えた。
「……これは、皆の安全のためなのよ!
もしあなたが聞く耳を持たなければ、その結果は誰にも負えないわ!」
彼女の声には、懇願にも似た強い意志が込められていた。
しかし――
サイラスは、ただ静かに微笑んだ。
まるで彼女の必死の訴えさえも、どこか楽しんでいるかのように。
――その笑みは、彼の本心を決して明かさない。
彼は短く息を吐き、低く呟くように言った。
「……そうか。まあ、分かったよ。」
エレが僅かに安堵しかけた瞬間、彼はふっと視線をそらし、続けた。
「……でもな。」
彼はちらりと廊下に目を向け、薄く微笑む。
「こんな朝早くに、俺の部屋の前で話し込むのはよろしくないんじゃないか?」
まるで、彼女の言葉を意識的に受け流すかのように。
その声には、どこまでも余裕があった。
そして、扉に手をかけると、まるで当然のように言い放つ。
「さあ、部屋に戻って休め。」
――まるで、彼女の話など取るに足らないと言わんばかりに。
次の瞬間、扉が閉じられた。
彼は扉を閉める前に一瞬微笑んだ。
エレは、その場に立ち尽くした。
思考が、動かない。
――信じないのは、分かっていた。
でも……こんなに簡単にあしらわれるなんて。
喉の奥に、怒りと失望が絡みつく。
唇を強く噛みしめ、何か言い返そうとしたが、すでに扉は閉ざされている。
「聞く価値もない」と、言われたようだった。
エレは拳を握りしめたまま、静かに踵を返した。
そして、そのまま自室へと戻る。
◆
「姫様?」
部屋に戻るや否や、リタが近づいてきた。
彼女の顔には、僅かな心配の色が浮かんでいる。
エレはベッドに腰を下ろし、沈んだ声で呟いた。
「……あの人は、私の言葉なんて何とも思ってないのよ。」
唇を噛み、悔しげに拳を握る。
リタは静かに肩をすくめ、そして、そっとエレの肩に手を置いた。
「でも、姫様はちゃんと伝えました。」
その声は優しく、しかし、どこかに割り切った響きを帯びていた。
「どう受け止めるかは、彼の問題です。」
どこか、諦めを含んだような言葉。
――彼女自身も、エレの夢を完全には信じていないのだろう。
それでも、エレは納得できなかった。
ただの夢だと片付けられるには、あまりにも鮮明だったから。
エレは、深く息を吸い込む。
「……ありがとう、リタ。」
彼女は小さく微笑み、そう呟く。
だが、その瞳の奥にはまだ――
消えない違和感が、残り続けていた。




