(31) 杯に映る余裕と怒り
二日かけても、隊列の進軍速度は依然として遅かった。
そして、ようやく迎えた三日目――。
エレは、予定通りの最初の町へと辿り着いた。
町には商店が立ち並び、宿屋もあり、旅に必要な補給と休息を取ることができる。
だが、エレにとって、ここでの宿泊は単なる休憩ではなかった。
それは心を解きほぐす、束の間の安息でもあった。
――少なくとも今夜は、久しぶりにまともなベッドで眠れる。
エレは、これまでの逃亡生活を思い出す。
荒野での野営、疲れ果てた身体を休める場所もなく、寒さや飢えに耐えた日々。
そんな過去と比べれば、今夜はほんのひとときでも安らげる時間になるはずだった。
……だが、それだけでは終わらない。
彼女には、どうしても話しておきたいことがあった。
決着をつけるべき相手――カイン。
彼に、自分の意思をはっきりと伝えるべきだ。
◆
エレは、酒場の扉を押し開けた。
中に足を踏み入れると、すぐに視界の隅に見覚えのある姿を捉えた。
サイラスだ。
店の隅に座り、椅子の背にもたれながら、手元には酒の入った杯。
まるで何かを待っているような、気だるげな雰囲気を纏っていた。
彼女の姿を認めると、サイラスは口元に薄く笑みを浮かべ、わずかに眉を上げる。
「どうした?」
その口調は軽やかで、どこか愉快そうな響きを含んでいた。
「まさか、ここで踊ってみせるつもりか?」
その言葉に、エレの足が一瞬止まる。
心の奥にくすぶっていた不満が、再び炎を上げるのを感じた。
だが、今はそれに流されるわけにはいかない。
エレは感情を抑えながら、サイラスへと歩み寄る。
しかし、その声には怒りが滲んでいた。
「……カイン様。まだどれほど足止めするつもりですか?」
彼を真っ直ぐに見据え、低く問いただす。
「こうして遠回りばかりして、まるで帝都に向かう気がないように見えますが?」
サイラスは、ゆったりと杯の縁をなぞるように指を這わせる。
「エレ、お前は本当にせっかちだな。」
軽やかに言葉を返すと、その琥珀色の瞳には揺るぎない余裕の色が浮かぶ。
「予定通りだよ。明日には出発する。」
あまりにも軽率な物言いだった。
エレは拳を握りしめる。
これまで何度も同じように「すぐに進む」と言われながら、結局引き延ばされ続けてきた。
彼はいつもこうだった。
彼女の不満や疑問に対し、飄々とした態度でかわし、まともに取り合うことがない。
まるで、彼女の訴えなど取るに足らないことだと言わんばかりに。
揺れる燭火がサイラスの手元を照らし出す。
彼の指は杯の縁をなぞるように滑り、そのまま無意識に袖口を整えた。
堪えきれず、エレは声を強める。
「……最初からそう言えばよかったでしょう?」
その瞳には怒りが宿っていた。
「解決できると分かっていたなら、なぜ何も言わなかったのですか?」
サイラスは彼女の反応を見て、さらに唇の端を持ち上げる。
悪戯を仕掛けた子供のような、挑発的な笑み。
「もし最初から教えていたら……お前、今みたいな顔を見せてくれただろうか?」
彼はそう言いながら、ゆっくりと立ち上がる。
悠然とした歩調で、エレの前へと進み出た――。
エレは無意識に一歩後ずさった。
だが、それでもサイラスは距離を詰めてくる。
淡く漂う酒の香りが、どこか気怠げな余裕を感じさせつつも、不思議な魅力を帯びていた。
――心臓が、一瞬だけ速く跳ねる。
彼は、息がかかるほどの近さまで迫っていた。
琥珀色の瞳が、燭火に照らされることで深みを増し、その視線には測り知れない何かが宿っている。
「すべては、俺の掌の中だ。」
低く、囁くような声。
それは、軽やかな挑発とも、あるいは優雅な宣告とも取れる響きだった。
「エレ、これはお前が学ぶべきことだ。」
彼の言葉が、胸の奥を揺らす。
――心臓が、一拍だけ乱れる。
エレは冷静を装おうとするが、不安はすでに胸の内へと広がっていた。
彼の瞳をまっすぐに見返す。
そこにはまだ、彼に屈しないという意思が残っている。
……けれど、本当に抗い続けられるのか?
唇が乾き、彼女は喉を鳴らしながら言葉を紡ぐ。
「……私は、あなたの計画に組み込まれるつもりはないわ。」
努めて平静を保とうとした。
だが、その声には微かに震えが滲んでいた。
サイラスはわずかに目を細め、口元に淡い笑みを浮かべる。
彼女の動揺を見透かしたかのように、だが、あえて指摘はしない。
代わりに――彼は、さらに一歩だけ近づく。
そして、耳元でそっと囁いた。
「それは、お前がどう選ぶか次第だ。」
声は驚くほどに穏やかで、けれどそこには抗いがたい力があった。
次の瞬間、彼はふっと距離を取る。
わずかに離れたはずなのに、彼の存在はまだそこに残り続けているようだった。
エレは深く息を吸い込み、心の乱れを整えようとする。
自分は、なぜこれほどまでに動揺しているのか――。
彼との距離に、何を感じてしまったのか?
「明日には予定通り出発する。」
いつもの飄々とした調子で、サイラスは言葉を紡ぐ。
「些細な問題は、俺に任せておけばいい。」
何気なく言い放つ言葉なのに、どこまでも自信に満ちている。
それがあまりにも当然のことのようで、エレはふと、わずかに肩の力を抜いた。
帝都への旅程は、もうすぐ再開できる。
サイラスの思惑には腹立たしさを感じるが、少なくとも前へ進める。
エレは静かに頷くと、冷ややかな声で短く答えた。
「……それならいいわ。」
心のわだかまりは拭えなかったが、彼女は踵を返し、酒場の扉を押し開けた。
サイラスはその背中を目で追い、薄い笑みを浮かべたまま、杯を手に持つ。
まるで、すべてを掌の上で転がしているかのように――。




