(30) 帝都への遠回り
一日かけて進めば、今頃は最初の町に着いているはずだった。
だが、日が沈んでも馬車は進まず、隊列は荒野の只中で停まり、野営の準備を始めていた。
あたりには人の気配すらない。
ひび割れた大地を、冷たい風がゆっくりと撫でるだけ――。
「……ここで泊まるはずじゃないのに。」
エレの胸に疑問が浮かび上がる。
このままでは、予定していた小さな町での休息が叶わない。
違和感を拭えず、彼女は足を踏み出した。
向かう先は、サイラスのもと。
彼を見つけた時、彼は数人の騎士たちに指示を出し、何やら準備を進めていた。
エレは躊躇うことなく、率直に問いかける。
「カイン様、私たちは町へ向かうはずでは?なぜここで止まるのですか?」
サイラスは手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
一瞬、瞳に捉えがたい光が閃く。
「少し片付けることがある。」
軽やかで冷淡な声。
「お前たちはここで待っていろ。」
説明を許さない、端的な命令だった。
エレは眉を寄せ、もう一歩踏み込む。
「……何をするつもり?」
サイラスは、まるで答える必要もないと言わんばかりに、ただ微笑む。
そして、何も言わずに背を向け、騎士団の者たちとともに荒野の奥へと歩き去った。
エレはその背中を見送りながら、疑念を募らせる。
――いったい、何が目的なの?
答えを得るため、彼女は野営地に残るノイッシュのもとへ向かった。
「……何が起きているの?」
静かに問うと、ノイッシュはわずかに目線を落とし、苦笑交じりに応じる。
「特に驚くことではありませんよ。カイン様はもともと、ここでやるべきことがあると決めていたのです。」
彼の声音は落ち着いていたが、詳細を明かすつもりはないようだった。
エレはなおも眉をひそめる。
「あなたたちは、最初から知っていたのね?」
ノイッシュは短く沈黙した後、やがて低く答えた。
「……ええ。これは計画通りのことです。
カイン様は必ずエレさんを帝都へお連れします。
ただ、その途中で少し用事を済ませるだけですよ。」
エレは小さく息を吐き、ノイッシュを見つめたまま、考え込むように視線を落とした。
「……そう。」
納得したわけではない。
今はこれ以上の答えを得られそうになく、彼女は静かに礼を述べてその場を離れた。
だが、胸の奥の不安は膨らむばかりだった。
――数時間後。
サイラスは部隊を率いて戻ってきた。
夜の静寂の中、彼の目がエレを捉える。
その瞳には、どこか楽しげな色が滲んでいた。
「まだ休んでいないのか?」
軽やかな口調。
まるで、まるで何事もなかったかのように。
エレはすぐには答えず、ただ彼の前まで歩み寄る。
視線を絡ませながら、まっすぐに問いかけた。
「あなたの計画は……問題を片付けながら帝都へ向かうことなの?」
サイラスは眉をわずかに上げ、口元に薄く笑みを浮かべる。
「ただのついでだよ。」
気軽な口調で言い放つ。
「近くの盗賊どもを片付けておいた。それだけのことさ。」
肩をすくめ、楽しそうに付け加えた。
「こういうのは、放っておくわけにはいかないだろ?」
挑発的な言い回し。
エレの胸に、言い知れぬ不満が込み上げる。
しかし、すぐに返す言葉が見つからず、一瞬の沈黙のあと、思わず口を開く。
「……それは、兵士や部下に任せれば済む話では?」
声がわずかに高まる。
「このままだと、帝都に着くのがいつになるか分からないわ。」
どこか挑戦的な響きを帯びたその言葉に、サイラスは目を細める。
「もしかして、あなたにとって帝都へ行くこと自体、大して重要じゃないの?」
すると――
サイラスの微笑が深まった。
琥珀色の瞳が焚き火の炎を映し、底知れぬ光を湛えている。
「言っただろう?」
軽やかな口調のまま、彼は言葉を紡ぐ。
「お前を帝都へ連れて行く。それは変わらない。」
そこで、わざと間を置き、さらに付け加える。
「ただな……この程度の寄り道は、大した問題じゃない。」
エレは彼をじっと見つめた。不安と疑念が再び湧き上がる。
この旅が彼の言うほど単純ではないと確信し始めたその時、二人の騎士が駆け寄ってきた。
「カイン様。」
緊張を滲ませた声で報告する。
「逃げた盗賊の姿が見つかりません。森の奥へ消えたようです。」
サイラスは特に驚かず、静かに頷いた。
「そうか。」
踵を返し、騎士たちに命じる。
「引き続き探せ。ここから先には逃がすな。」
淡々とした口調。
まるで、逃げた盗賊が取るに足らない存在であるかのような――。
まるで、ただの"手間"を処理するだけのような声音だった。
エレはその場に立ち尽くし、胸の内に言いようのない無力感が広がるのを感じていた。
この旅は、ただ帝都へ向かうだけのもの――。
彼女はそう思っていた。
だが、サイラスは容赦なく彼女を「それ以上」の問題へと巻き込んでいく。
彼女は静かに息を吸い込み、自分を落ち着かせるように深く呼吸する。
今の彼女には、サイラスに従う以外の道はない。
どんなに彼のやり方に不満があろうとも、彼がいなければ帝都へは辿り着けない。
選択肢はなく、抗うこともできない。
無駄な抵抗をすれば、事態がより複雑になるだけ。
――ならば、無駄な質問はやめるべき。
彼女が今すべきことは、少しでも早く帝都に到着し、エドリック王子と接触すること。
それ以外のことは、どうでもいい。
サイラスが何を考え、何をしようと、それは彼女には関係のないことだ――。
「……帝都まで、あとどれくらいかかるの?」
結局、彼女は問わずにはいられなかった。
彼女の声には、隠しきれない疲労と諦めが滲んでいた。
サイラスはまるで予想していたかのように、軽く振り返る。
唇に浮かぶのは、淡い笑み。
「これ以上の邪魔が入らなければ、予定通りに着くはずだ。」
彼の声はどこまでも軽やかだった。
そして、何気ない調子で、さらに一言を付け加える。
「……とはいえ、もしもう少し寄り道をしても構わないなら、いくつか調整もできるが?」
エレに再び疲労感が押し寄せた。
彼にとって、この旅程の遅れなど大した問題ではないのかもしれない。
だが、彼女にとってはそうではなかった。
それ以上言葉を交わす気力もなく、彼女は黙って馬車の方へと向かう。
気持ちを整理し、ただ前へ進むことだけを考える。
サイラスは、そんな彼女の背中をしばらく見つめた後、
何も言わずに視線を外し、騎士たちに命令を下した。
「準備を整えろ。明日朝早く出発する。」
短い指示が飛び、騎士団が動き出す。
その瞬間――
彼と彼女の間には、どこか目に見えない壁が生まれたかのようだった。
交わされる言葉はなく、ただ静かな時間だけが流れていく。




